『沈黙を破る』

 2002年春、イスラエル軍ヨルダン川西岸への侵攻作戦のなかで起こったバラータ難民キャンプ包囲とジェニン難民キャンプ侵攻。カメラは、2週間にも及ぶイスラエル軍の包囲、破壊と殺戮にさらされるパレスチナの人びとの生活を記録する。
同じ頃、イスラエルの元将兵だった青年たちがテルアビブで写真展を開く「沈黙を破る」と名づけられた写真展は、“世界一道徳的”な軍隊として占領地に送られた元兵士たちが、自らの加害行為を告白するものだった。占領地で絶対的な権力を手にし、次第に人間性や倫理、道徳心を失い、“怪物”となっていった若者たち。彼らは、自らの人間性の回復を求めつつ、占領によって病んでいく祖国イスラエルの蘇生へと考えを深め、声を上げたのだ。
監督は、ジャーナリストとして20数年にわたりパレスチナイスラエルを取材してきた土井敏邦。数百時間にも及ぶ映像を、長編ドキュメンタリー映画として完成させた本作では、イスラエル軍パレスチナ人住民にもたらした被害の実態と共に、“占領という構造的な暴力”の構図を、人びとの生活を通して描き出している。
時に絶望的に見える抑圧をしたたかに生き抜くパレスチナの人びと、そして、「祖国への裏切り」という非難に耐えながらも発言を続けるユダヤ人の若者たちの肉声は、「パレスチナイスラエル問題」という枠を越え、人間の普遍的なテーマに重層的に迫る。
(http://www.cine.co.jp/chinmoku/story.html)


上の公式サイトのあらすじでも、6月に十三で行なわれた「報告会」での土井監督の発言でも、映画のテーマが「普遍的」なものであることが強調されていますが、過去の戦争犯罪や植民地戦争(征服戦争or独立戦争)などについてある程度予備知識をもってこの映画を観れば、この強調は非常に納得のゆくものです。そのことはもちろん、個々の事例の個別性を否定したり、個々の当事者の責任を減免する理由にはなりませんが。
例えば「沈黙を破る」のメンバーの一人はこう語っています(大意)。銃撃されたアラブ系の少女にイスラエル軍将校が「とどめを刺した」*1事件が発覚したとき、軍は「例外的」な事例だといって弁明した。しかし兵役についた若者はまず第一に敵を確実に殺すことを教えられる。戦場での戦闘を想定した訓練をうけた若者が占領地での警備任務につかされる・・・、と。多数の“善良な市民”のなかから犯罪者を摘発することを任務とする警察とは異なり、軍隊というのは本来「敵か、味方か」がはっきりしている状況でこそもっとも合理的に機能する組織だと言えるでしょう。旧日本軍の占領地でかつて起きたこととの共通性は明らかです。


「沈黙を破る」の活動がイスラエルでどのように受けとめられているかを知る手がかりとして興味深いのは、メンバーのうち2人の親へのインタビューです。来日もしたノアム・ハユット氏の母親は自身が反戦活動家でもあるので、イスラエル軍の暴力に対する視線は当然厳しいものです。“息子を人殺しと呼ばねばならないのはつらいですが、あの子の方がもっとつらいはずです。自分が殺した娘さんの夢にうなされるのですから。” もう一人のメンバーの父親は「テロリストとの戦いは必要」と考え、息子の活動に困惑しています。それに比べれば母親は一見理解があるように見えます。「あの子たちは(イスラエル軍兵士にとっての)心理療法士の役割を果たしているのです」、と。しかし息子は、二人は一見反対のことを言っているようで、実は同じことなのだと両親を批判します。「沈黙を破る」の活動を「心理療法士」*2のそれと同一視することは、占領の暴力という現実を放置して兵士たちの心を“癒す”ことによって問題に対処しようとすることだから、です。もっとも、この母親の発言は、「沈黙を破る」の活動が陥りかねない陥穽への警鐘としては意味のあるものだろうと思います。「沈黙を破る」のメンバーは安易に「パレスチナ人への共感」を口にしたりはしない。パレスチナ人こそが最大の被害者であることは自明であるとしつつ(映画ではハユット氏がそう発言します)、占領がイスラエルという国家を内側から蝕み頽廃させているという指摘を前面に出しています。こうした方向性が(1)あくまで自分たちの体験に忠実であり続ける、(2)(ユダヤ系)イスラエル人に問題を自分のこととして考えさせる、という2点において有効な戦略だということは確かでしょう。問題はそれが加藤典洋的な理路によって「心理療法士」の役割へと矮小化されないためにはどうすればよいか、です。


映画のなかには、「沈黙を破る」のメンバーがイスラエル国会で証言する場面のアーカイブが利用されています。軍の行動を討議する場ではなく、イスラエルにおける人権教育について(それが果たして実を結んでいるのか、という観点から)証言するために、ですが。メンバーは学校で教わった「人権」が占領地で、あるいは難民キャンプで蹂躙されていることにショックをうけたと語ります。しかしある意味では、彼らが問題意識を持ちえたのも人権教育のおかげではあり、またイスラエルが、イスラエル軍の暴力を告発しようとするこの映画にアーカイブの利用を許可するような国家であるのも一面の真理ではある。しかしながら、この映画に登場するパレスチナ人青年は、イスラエル軍の爆撃で失った右手の治療のためヨルダンに出国しようとして国境で拘束され、数年間投獄されたといいます。理由は「右手を失ったのは爆弾をもっていた証拠だ」というものでした。ハユット氏が十三の集会で指摘していたように、「沈黙を破る」の活動を可能にしメンバーの市民権を守っているイスラエルの法律は、アラブ系住民に関しては十全に機能していないのです。このエントリを書いている途中にこういうニュースも目にしました。

【7月23日 AFP】イスラエルのギデオン・サール(Gideon Saar)教育相は21日、国内のアラブ人学校で使う教科書で、イスラエル建国をめぐる記述にアラビア語で「大災厄」を意味する「ナクバ(Nakba)」という言葉を使用することを禁止すると発表した。次回の教科書改定時から適用するという。


 サール教育相は、「公立の教育制度においてイスラエル建国を大災厄と表現する理由がない。教育制度の目的はわが国の正当性を否定することでも、アラブ系イスラエル人の間に過激思想を広めることでもない」と説明した。


 イスラエルでは「ナクバ」を記念する集会に対し、国家の補助金をいっさい禁止する法案も準備が進んでいる。アビグドル・リーバーマン(Avigdor Lieberman)外相が提出した草案では、「ナクバ」を記念するすべての行為を禁止し、違反者には最大で3年の禁固刑を科すとなっていた。
(後略)

「ナクバ」についての映画も今年日本で公開されたところです(公式サイト)。日本の歴史教科書から「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」や「軍の強制のよる集団自決」等々を消し去ろうとするのと同様な欲望がイスラエルにも存在し、国家権力によりその欲望は実現されてしまったわけです*3

*1:映画ではたしか「死の確認」といった用語が用いられていました。以下同様。

*2:英語で喋っている息子の方は "psychiatrist" と言っていたので、「精神科医」とすべきなのかもしれません。

*3:検閲に脅かされているのはエロ表現だけであるかのごとく被害者意識を全開にしている人びとがここのところ日本のネットで大活躍していたわけですが、んなこたーないわけです。