「男らしさ」の二つの類型

『連続講義 暴力とジェンダー』(林博史ほか編著、白澤社)に収録された林博史氏の「講義5 日本軍「慰安婦」制度と米軍の性暴力」において、米軍の「性管理政策」を分析する過程で、著者は「男らしさ」に2つのタイプがあることを指摘している。「強いとかたくましいとか荒々しいとか、いわゆるマッチョなイメージの男らしさ」(199ページ)と「理性によって自分を管理できる人間」「男というのは人前では泣かない、感情を理性でコントロールできるのが男だ」(200ページ)といったかたちでの「男らしさ」。米軍の性管理政策が後者の「男らしさ」観に基づいて形成されたとし、しかし(簡潔な記述を私なりに補ってまとめると)その政策の効果を含む実態を分析するには、非エリート層が必ずしも後者のタイプの「男らしさ」を受け入れていないことを考慮に入れる必要がある、とされている。
この二つの「男らしさ」の類型は、この講義においては、アメリカ近代史という文脈において提出されているので、それを直ちに一般化することは林氏の論旨に沿うものではないかもしれないが、「男は獣」ばり日本軍の性管理政策の背後にある思想と比較したくなる。
あるいは、ブラウニング(とゴールドハーゲン)が分析した第101予備警察大隊の指揮官、トラップ少佐が最初にユダヤ人の銃殺を命令した際のエピソード。元部下たちの戦後の供述によれば、彼は「自分自身をコントロールするために激しく戦って」いたがその努力は完全には実を結ばず、「目に涙を浮かべて」命令を伝えた*1とされる。ナチの価値観ではこの指揮官は「男らしさ」に欠けることになるのではないか。「女子」学生の「かわいそう」を Dis らせるのも「理性によって自分を管理できる人間」としての「男らしさ」なのではないだろうか。

*1:クリストファー・ブラウニング、『普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』、筑摩書房、13ページ。のみならず、彼は一部の将兵が任務を拒否することを容認した。