「我欲」にまみれた明治人


去年一番ショックだったのは、おじいさんが30年前に死んだのを隠して年金詐取する、こんな国民は世界中に日本人しかいない。日本人のアイデンティティーは我欲になっちゃった毎日新聞、2011年3月14日、「東日本大震災:石原知事「津波は天罰」」


一ノ瀬俊也は『銃後の社会史−−戦死者と遺族』(吉川弘文館)において、長崎県諫早市ほかで出征し戦死した将兵の遺族指導を担当した嘱託Nが太平洋戦争期に作成した業務報告書控えなどの史料(国立歴史民俗博物館収蔵)に依拠して、遺族が抱えていた悩みやトラブルを紹介している。

 相談内容のなかで一番多かったのは、表にあるとおり、軍人恩給・扶助料をめぐる遺族間の紛争であった。Nの主要な任務はこの種の紛争解決にあったといっても過言ではない。Nたちはどのようにしてこの紛争を解決しようとしていったのか、いくつかの具体例から検討してみよう。
(……)
 Nが関わった遺族紛争のうち、最もその過程を詳しく再現できるのが、一九四〇年七月に戦死した陸軍准尉Aの事例である。Nの記した遺族台帳によると、遺族は未亡人(戦死時二十五歳、子供なし)と農業を営む戦死者の父母(戦死時五八・五二歳)・弟二名・姉一名・妹三名の大家族であった。彼らには特別賜金二五〇〇円、扶助料年額八七二円(四二年一〇月裁定)、金鵄勲章年金二五〇円が与えられた。台帳には彼の遺言が筆写されている。「御上よりの賜金は君〔妻〕に与えるにより、その使用にしては勝手たるも、平素僕の話せし趣旨に合すべきこと」、「双方の両親に対する孝養は勿論、兄弟姉妹親類一同と折合を円満にすること」というものであった。
(102-103ページ、強調引用者、原文のルビを省略。)

「扶助料」とは遺族(死亡時に同一戸籍内にある祖父母、父母、配偶者、子、兄弟姉妹)のうち一人の名義で給付されるもので、権利者の順位は妻、未成年の子、夫、父、母、成年の子、祖父、祖母……となっていた。戦死したAの遺志はまた法が定めた手続きにも合致するものであった。

 しかし、彼の遺志に反して扶助料のゆくえをめぐる紛争が勃発した。Nの業務日誌にみえる事の発端は、四一年五月五日、Aの未亡人が「離籍問題」につき相談をしてきたので、本人から話を聞き善処してほしい、という書簡を県の社会課長から受け取ったことである。おそらくAの実父が未亡人に戸籍からの除籍(同一戸籍から外れれば、当然扶助料受給資格もなくなる)を強要して、扶助料をわがものにせんとしているのである。
(103ページ)

結局この紛争は、「扶助料一期分」の慰謝料を「未亡人」に与えるなどの条件と引き換えに、遺族としての権利を一切実父に譲るという、戦死者の遺志に反する決着を見ている。夫婦の間に子どもがなかったことがこのような決着を導いたのであろうと著者は推測している。


(念の為。いまの日本と比べても公的社会保障が整備されていなかった時代のことだから、富裕層を除けば働き手を失った遺族にとって恩給や扶助料の配分は切実な問題であり、それをめぐって争う遺族が「我欲」にまみれているとは私は思わない。悪いのは国民の生存権をきちんと保障しない国家の方である。)