無責任きわまりない「河野談話撤回」論者たち

最初に不明を恥じておくと、07年のあの“国辱的”な事態のあとで、「慰安婦」問題へのこれほどのバックラッシュが起ころうとは、想像もしていませんでした。しかも5年間でレトリックをつくり直してきたならともかく、なんとかの一つ覚えよろしく「強制連行はなかった!」でどうにかなると思っている。弁解するなら、いくらなんでも日本の保守派・右派がこれほどの阿呆揃いだと予測できなかったとしても、そりゃ私の責任ではないだろう、と。
先日のエントリでも分析しておいたように、「河野談話」は言葉遣いに関して極めて周到であり、その当時政府関係者が知り得たことを非常に忠実に反映していると考えられます。その後20年間で明らかになったこと、特に占領地における性暴力の実態を考慮に入れるなら、いまや「踏み込みが足りない」と評するのが妥当なくらいです。「河野談話」に依拠して「慰安婦」問題についての認識を形成した人間が「そうか、朝鮮半島では人狩りが横行していたのか」と思うことなどあり得ない、ということは「河野談話」を斜め読みするだけでもわかることです。また、07年に可決された米下院他の決議にしても、その当時までに積み上げられていた証拠から言いうることを逸脱しないよう練られたものであって、日本の右派の粗雑極まりない論法で太刀打ちすることなど到底できません。
その各国議会の決議を読めば、「河野談話」が日本にとって数少ない得点であったこともわかるのですが、いまやその得点すら放棄しようとしているのが自称愛国者さまたちです。日本軍「慰安所」制度というのは、敗戦時の隠滅を免れた公文書から言いうることに限定して記述したとしても、「民間の人身売買ネットワークを軍が公式に兵站付属施設に取り込んで利用し、内務省や外務省もそれに協力した」ということであって、当時においても表沙汰になれば大スキャンダルであることは軍自身がよく承知していました。「それのどこが悪いのか?」と開き直る人間につける薬の処方箋は残念ながらもちあわせていないので、国際社会から(とりわけアメリカから)お灸を据えてもらうしかないのだろうな、と。その過程で損なわれる日本の「国益」については、「河野談話撤回」論者にしっかり責任を取ってもらいたいものです。