『戦史叢書』の「バターン死の行進」免罪論

以前に戦史叢書シリーズの『比島攻略作戦』の巻を古書店で入手していたので(函なし、付属地図なしだと安く買えるもので)、そこでは「バターン死の行進」についてどのような弁明がはかられていたかをざっとご紹介しておきます。
第8章「バタアン半島の攻略(第二次バタアン攻略戦)」には「いわゆる『死の行進』事件について」という一節が設けられています。「いわゆる」の一言でその後の展開は予想できてしまうわけですが、まずは「死の行進」の背景として次の3点を挙げます(431ページ)。
・「降伏時バタアン半島の米比軍と流民の状況は、士気は全く衰え、食料の不足とマラリヤの流行とのため極度に衰弱していた」
・しかしコレヒドール作戦の「準備や防諜上の観点」、および「米比軍の砲爆撃によって傷つけないため」には捕虜や住民をその場に留めておくことはできなかった
・「米比軍の降伏が意外に早かった」ため「捕虜に対する食料、収容施設、輸送などに関し準備を行う余裕もなかった」
その上で次のように述べてます。

そこで軍は、これら捕虜をサンフェルナンドまで六〇粁を徒歩行軍させたが、極度の心身の衰弱と折からの炎天のため、途中と収容所到着直後とに多数の犠牲者を出したことは、もとより軍の本心ではなかったが、真に痛恨きわまりないところであった。(中略)
このように、当時、連合国軍が軍の処置をきわめて不当なものとしてとりあげ、かつ宣伝した理由は、当時、日本側は、その装備の貧弱ゆえに、「行軍は徒歩によるのがあたりまえ」の思想であったのに対し、米国側などは、機械化されていたために、「行軍は車両によるのがあたりまえ」の思想であり、徒歩行軍に慣れていなかったことにもよるものであろう。
(431-432ページ)

ご覧の通り、行軍途中の虐待や虐殺は完全に無視しています。しかし笹幸恵氏は「この距離を歩いただけでは人は死なない」ことをご苦労にも証明してくれたわけですが、アメリカ人にはそんなことがわからないとでも思うのでしょうか?
その後、戦史の公式な記述としてではなく和知参謀長の言葉を引用するかたちでさらに弁明が続きます(432-433ページ)。いわく「ほとんどがマラリアその他の患者になっていた」「護送する日本兵も一緒に歩いた。水筒一つの捕虜に比し背嚢を背負い銃をかついで歩いた」「日本兵が焚き火をし、炊き出しをして彼等に食事を与え」「通りかかった報道班員が見かねて食料を与えたこともある」「決して彼らを虐待したのではない」「彼らはトラックで移動することを常とし、徒歩行軍に慣れていなかった」「そこ〔オードネル捕虜収容所〕にたどりついてから、気がゆるんだのか息を引きとった捕虜が多かった」「ともかく軍としてはあの条件下でありながら、できるだけのことはしたつもり」……。「『バターン死の行進』女一人で踏破」の原型はすでにここにあったということができます。