さてでは笹幸恵氏はなにを「意図」したのか?(旧ブログから転載)
(06年2月22日に旧ブログにアップした記事。ゆうさんの記事に触発されて転載しておくことにしました。当時の文脈に依存した部分もありますが、あえて補足などはしておりません。)
- 笹幸恵、「「バターン死の行進」女一人で踏破」、『文藝春秋』、2005年12月号、200-209頁
- 「編集部より」、『文藝春秋』、2006年3月号、488頁
- レスター・テニー、「「バターン死の行進」――事実かフィクションか」、『文藝春秋』、2006年3月号、488-492頁
さて、改めてネット上で「「バターン死の行進」女一人で踏破」をめぐる情報をながめてみると、サイモン・ウィーゼンテール・センター(以下SWC)ないしレスター・テニー氏に当該記事についての情報を与えた日本人を想定(Jonah さんがメールで問い合わせる以前に)し、記事の内容が正しく伝わっているのかどうかを問題にしている人が複数存在していることが分かる(例えばhttp://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060219#p3 とか)。私としては、すでに Jonahさんのブログでもコメントしたように、こうした情報提供を「煽る」とか「炊きつける」と表現する人々の認知構造こそが真の問題であると思うのだが、まずは「記事の内容が正しく伝わっているのかどうか」という疑念について考えてみたい。
こうした疑念が(そして「煽った」に類する表現が)前提にしているのは
・笹幸恵氏の記事はなんら(ないしおおむね)問題のないものである
・記事の内容が正確に伝えられていれば、SWCやテニー氏は抗議しなかった(ないししなかった蓋然性が高い)
の二つであろう。では、SWCらによる抗議はどのような内容のものだったのか? 抗議があったことを伝える読売新聞の報道から抗議内容に触れている箇所を抜き出すと
・日本軍が捕虜米兵らを炎天下歩かせた「バターン死の行進」についての月刊「文芸春秋」の記事が「歴史を誤って伝えるものだ」(…)
・(…)「水や食事をきちんととって歩いた彼女の行程は、当時の状況とかけ離れている」と批判した。
となっている(Yomiuri Online ではこの記事はすでに消えているのでリンクは貼らない。“「バターン死の行進」記事、ユダヤ人団体が文春に抗議 ”という記事タイトルでググればこの記事を紹介しているサイトがいくつも見つかるので、そちらでご確認願いたい)。また、『文藝春秋』がテニー氏の抗議文を掲載したことを伝える読売新聞によれば
先月、「行進が過酷でなかったような内容で犠牲者にとって侮辱的」との抗議を受けていた。
となっている(2006年2月13日12時59分 読売新聞)。
これらの抗議が問題の記事の内容と噛みあっていないというのであれば、なるほど「情報が正しく伝わっていない」との疑念が生じるのももっともであろう。最初に引用した読売新聞の記事によれば笹氏のルポは
フィリピンで行進のルートを4日間かけてたどり、「栄養失調気味の私ですら踏破できた」と報告。「日本軍による組織的残虐行為」との批判に、疑問を投げかけた
ものなのだとされている。一方、読売新聞の報道が伝える抗議内容のうち「歴史を誤って伝えるものだ」という部分は、歴史認識問題に関する「抗議」のいわば常套句であって、なにに関して抗議しているのかについての情報を与えてはくれない。そしてもう一つの「水や食事をきちんととって歩いた彼女の行程は、当時の状況とかけ離れている」について言えば、「かけ離れている」という評価の妥当性はおくとしても、抗議として噛みあっていないということはない。一方は「栄養失調気味の私ですら踏破できた」と主張し、他方は“現実はもっと苛酷だった”と抗議しているわけである。私がこの記事から読みとることができるのは、「行進」の過酷さに関して両者の間に評価の違いがあるということであって、SWCなりテニー氏なりが誤った情報に基づいて抗議しているのではないかと示唆するようなものは特にない。
さらに、この件に関してSWCが出したプレス・リリースとテニー氏の抗議文(『文藝春秋』2006年3月号に掲載されたものの原文)についても検討してみよう(ちなみにSWCのプレスリリースは1月11日付け)。私見ではテニー氏の抗議文に含まれる争点は
1)笹氏の記事は行進の残虐性を過少評価している
2)笹氏の記事は日本軍の責任を軽減している
3)「死の行進」は日本軍の作戦目的と密接に関連していた
の3つである。読売による笹ルポの趣旨
「日本軍による組織的残虐行為」との批判に、疑問を投げかけた
に対応させるなら第1点目(これが抗議文の大半を占める)が「残虐行為」に、第2点目が「日本軍による」に、3点目が「組織的」に関わる抗議ということができるだろう。したがってどちらに理があるかは別としても、抗議のポイントとして的外れなところはない(例えば笹氏が「責任は全面的に日本側にある」と書いているにもかかわらず「日本軍の責任を軽減しようとしている」と抗議しているとか、「組織的な行為ではなかった」と書いてあるのに「天皇を免責している」と抗議している、といったことはない)。また、SWCのプレスリリースには、当該記事において生存者の証言が「「死の行進」という虐待行為が存在したことを前提として取られた調書」であるとされている点への言及があるが、これは笹氏の記事の該当箇所の正確な英訳である(ちなみに英文は“…gathered based upon the assumption that an atrocity of the Death March did take place.”で、私なりに訳すなら「〔調書は〕「死の行進」の残虐行為が実際に行なわれたという想定のもとで集められた」といったところ)。
すると残る問題は、テニー氏らの抗議について、なにかしら笹論文についての誤解に基づくようなところがあるかどうかである。1)はあとまわしにして2)、3)から検討してみよう。
まず2)に関して、笹氏は次のように書いている。
むしろ、最大の問題は、水不足や栄養失調より、捕虜たちがマラリアなどの病にかかっていたことではないだろうか。(…)もし「死の行進」の最中に捕虜がマラリアで亡くなったのだとしたら、それは行進に起因するものというより、米比側のそれ以前の治療体制が不十分だったことを示している。(…)もちろん、そのことで「死の行進」を正当化できるものではまったくないが、少なくともすべてが日本軍側の責任であったかのような捉え方はあたらない。
(208頁)
これに対するテニー氏の抗議は次の通り。
(…)そこで笹氏に尋ねたい。「バターン死の行進」に対する責任は日米双方にあると主張されるなら、行進の途中で起こったあの数々の悲劇的な出来事のいったいどの部分が、私の多くの友人たち、あるいは私自身の責任だと言われるのか。(492頁)
テニー氏は「笹氏はすべてをアメリカ側の責任にしようとしている」などとは抗議しておらず、この点で笹氏の記事に関する誤解はない。他方、笹氏が「死の行進」以前(というよりアメリカ軍の降伏以前)の「米比軍」の医療体制を責めているのに対して、テニー氏が「行軍の途中」で起こったことに対してアメリカ側にどう責任があるのかと反問している点については行き違いがあるように見えるかもしれない。しかしこれは「最大の問題」(笹氏のことば)が行進以前にあったのか、それとも行進の途中にあったのかをめぐる争いであると理解すれば足り、「テニー氏は、笹氏が行軍中の日本兵による暴行等についてもアメリカ側に一定の責任があると主張している、と誤解している」などと勘ぐる必要はない。
次に3)。これについてはテニー氏が具体的に笹氏の文章を引用しているので検証は簡単である。テニー氏の抗議文にある引用は "Ms. Sasa then stated that if the Japanese Army had planned the atrocity they would have held them on the spot where they were captured. " であり、これに対応する笹氏の文章は「もし日本軍が捕虜に対して残虐行為を行なう計画があったのなら、行進などさせずにこの場所にとどめ置いたはずだ」(201-202頁)である。テニー氏がきわめて正確な情報に基づいて抗議文を書いていることがうかがわれる。
なお、笹論文のリードには「組織的な残虐行為なのか。」とあるが、本文では「組織的であったかどうか」の検討は行われておらず、おそらくはこの「計画的であったかどうか」に関わる部分を念頭においているのであろう。なるほど日本軍がこのケースで捕虜の殺害それ自体を「計画」したとは思えないし、テニー氏もそのような主張は行なっていない。テニー氏の主張は、「行進」が日本軍の作戦行動のために必要となったものである以上、「行進」による犠牲は日本軍の組織的行動、戦争計画と無関係ではあり得ない、というものであろう。
最後に1)について。ここにはいくつかの下位論点が含まれるので詳しくは『文藝春秋』2005年12月号と2006年3月号を読み比べていただきたいが、結論を言えばやはりテニー氏は相当正確な情報をもとに抗議を行なっていることがわかる。例えば笹氏が「捕虜たちは武器を持たず、水筒一つぶら下げているのみ」だったと書いている(202頁)ことをうけて、武器を持っていなかったのは(当然)その通りであるが、水筒は運良く持っていた者もいたものの、大半は持っていなかった、と反論している。また、笹氏の「行進」の様子についてテニー氏は
笹氏は、午前八時三〇分からほぼ午後四時三〇分まで歩き、昼食のために休憩している。その後、氏はちゃんとした夕食を摂り、ホテルのベッドで眠りに就いたようだ。たぶん、着替えもしたのではないだろうか。そしてぐっすり休んだ後、リフレッシュして翌日の行動を開始したに違いない。(490頁)
と書いている。歩いた時間に関しては、笹氏の報告によれば次の通り。
1日目:午前9時半〜午後4時50分
2日目:午前8時40分〜午後5時
3日目:午前8時半〜午後5時半
4日目:午前9時〜午後5時
特に問題になるような誤解などないことがわかる。また「昼食のために休憩」には「昼食ののち」という笹氏の文章(204頁)が対応しているし、3日目には「宿泊先のホテルに着いて車を降りようとすると」という記述がある(205頁)ことから、晩はホテルに泊まったらしいことも推論できる(1日目、2日目は野宿したといった記述はない)。夕食であるとか「リフレッシュ」云々はテニー氏の推測であるが、推測であることはテニー氏の文章からはっきりわかるし、「昼食」をとった者が夕食もとったであろうと考えるのは、記事中で特に夕食について明言されていない以上きわめて自然な推測である。「捕虜たちの状態を再現するためにホテルの床に座って眠った」などといった報告はないのだから、ベッドで寝ただろうと推測したからといって誤解や情報の歪曲があったなどとは言えまい。
少し微妙なのは「下痢が一日、二日続くことは、栄養失調であることを意味するものではない」というテニー氏の反論である。笹氏の記事には「下痢」の期間は明言されていない。「行進」に出発する4日前まで12日間ブーゲンビル島に滞在し、「ブーゲンビルの水にあたって下痢を繰り返し」たとあるだけである。ブーゲンビル島到着早々に下痢が始まっていたのなら約2週間下痢が続いていたことになるし、逆にブーゲンビルを発ってから症状が出たのなら実際に「一日、二日」だった可能性もある。しかしながら、どちらにしても「行進」に先立つ60日間劣悪な栄養状態にあり、半数がマラリアに罹患したり戦傷を負っていた米軍捕虜たちの状況から遠いことに違いはなく、これまた笹論文の主張を大きく歪めるような問題ではない。
また、テニー氏は「水分補給」をめぐる笹氏の考察に次のように抗議している。
Now for the necessities of life; water. The author states that, “there were paddy fields, irrigation ditches, and reservoirs. There could not have been a problem with water supply.” Once again we are led to believe that the land and environment conditions in the year 2005 were the same as they were in 1942.
ここで引用されている笹氏の文章(翻訳はまたしても正確)の後には実は次のような一節が続く。「いや、当時は水田だったかどうかもわからない、いろいろな想いにふけりながらひたすら歩く。」(205頁) ここだけを読めば、笹氏がきちんと1942年と2005年の状況の違いを考慮に入れているのに、テニー氏がそれを無視しているかのように思える。だが、自らの行進を振り返って笹氏は次のように書いているのだ(これはSWCのニュースリリースとも関連する点である)。
バターン半島には、いくつもの川が流れており、当時は沼地も点在していた。水分補給とまではいかなくても、熱中症対策くらいはできたのではないかと思われる。しかし、監視の目を盗んでそれを行うのは困難だったろう。「(日本兵は)われわれがどんな水源からでも水を得ようとするのを禁じ、動物のように追い立てた」と、捕虜の一人は証言している。
もっとも、これら捕虜たちの証言は、鵜呑みにできないものも少なくない。「死の行進」という虐待行為が存在したことを前提としてとられた調書である。また、戦犯裁判では反証を行っても公正に取り扱われないため、事実関係が確定できない。なかには、「ジャップは(…)とにかく我々を侮辱するためには何でもやった」「時計や金品を奪った」などと言う、にわかには信じがたい証言もある(…)。
(207-208頁)
いったい水分は摂れたというのか摂れなかったというのか真意のわかりにくい文章であるが、“捕虜たちの証言に反して、けっこう水を得ることができた可能性”を読者に印象づけようとする文章であることは明白であろう。したがってテニー氏の抗議は笹論文を誤解したうえでのものだ、と言うことはできない。
ついでながら、捕虜の証言については特に理由も示さず「にわかには信じがたい」と書く笹氏は、「比島派遣軍報道部がまとめた『比島戰記』」に出てくる証言についてはなんら留保をつけず、むしろその証言を前提にして考察を続けている(208頁)。「公正」もなにもそもそも捕虜たちが「反証」を行なう余地などない戦記は「鵜呑み」にし、捕虜の証言は具体的な根拠なしに(一般的な状況にのみ基づいて)疑う。このブログの読者の方ならおなじみ、南京事件否定論者が目撃者、体験者、当事者たちの証言を扱う際の態度とまったく同じである。
さて、以上からSWCおよびテニー氏は笹氏の記事に関するきわめて正確な情報をもとに抗議を行なっていたことが明らかになった。一部の方々の危惧は杞憂だったわけである。
最後に『文藝春秋』編集部の「編集部より」における釈明をみてみよう。編集部は
(…)「バターン死の行進」で日本軍の捕虜虐待行為によって多くの犠牲者がでたことは、歴史的事実です。笹氏の記事は、こうした蛮行の否定を意図したものではありませんし、編集部にもそうした意図がないことは言うまでもありません。(…)
と述べている。「こうした蛮行」とはなにをさすのだろうか? 「多くの犠牲者がでたこと」だろうか? なるほど笹氏の記事は「多くの犠牲者が出たこと」を否定してはいない。それとも「蛮行」=「日本軍の捕虜虐待行為」だろうか? また「捕虜虐待行為」とはおよそ100キロの道のりを行進させたことをさすのだろうか? だとすれば、やはり笹氏はそのことを否定していない。しかし「捕虜虐待行為」が行進中の日本兵による殴打、水分補給の禁止等をも含むなら、笹氏は前者についてはなに一つ語らず、後者については懐疑的である。「蛮行」の否定を意図していたと解する余地は十分にある。また「蛮行」は「日本軍の捕虜虐待行為によって多くの犠牲者がでたこと」全体をさすのだろうか? もしそうなら、笹氏は
さて、実際に歩いてみてわかったことがある。それは、第一に、「この距離を歩いただけでは人は死なない」ということである。
と、誰にでもわかり切ったことをさも大発見であるかのように書いている(207頁)。そして「最大の問題」は「それ〔=行進〕以前の米比軍側の治療体制が不十分だったこと」だと主張している(208頁)。これはいったいなにを「意図」していたのであろうか…。
追記:ルポ中で笹氏は自らを「ろくに運動もしていない三十路女」と形容している。その笹氏についてこのような投稿が「チャンネル桜 掲示板」に。
小生も笹幸恵氏とは面識があるのだが、新体操の経験のある体育会系のアイドル顔負けの美形で、きめ細やかな大和撫子である。
お祖父さんが満州で狙撃手をされていたそうで、グリーンベレーの軍事訓練でも見事な腕前を発揮しておられた。
もし本当なら、「ろくに運動もしていない三十路女」とはずいぶんと異なるプロフィールである。もちろんこれについては「ガセ」であるとか「ひいきのひきたおし」であるとか「ファンを装った工作」であるとかいろいろな「可能性」はあるのだが、「面倒なので可能性は排除することにしました」。