『バターン遠い道のりのさきに』

  • レスター・I・テニー、『バターン遠い道のりのさきに』、梨の木舎(教科書に書かれなかった戦争PART43)

文藝春秋』が「「バターン死の行進」女一人で踏破」(笹幸恵、2005年12月号)を掲載したことに対してテニー氏が抗議文を執筆した際に問題になったのは「バターン死の行進」の体験だけでしたが、タイトルの「道のりのさきに」という表現が示す通り、「死の行進」についての記述は全体の10分の1ほどでしかありません。その後フィリピンでの収容所生活、日本への移送を経て大牟田の炭坑で日本の敗戦まで強制労働を課された体験、そして帰国して除隊するまでの経緯が回想されています。帰国した彼を待っていたのは、彼が戦死したと思った婚約者がほんの数ヶ月前に結婚したという知らせだったとのことです。
昨年刊行された『GHQが封印した幻の潜入ルポ ナガサキ昭和20年夏』(ジョージ・ウェラー、毎日新聞社)には、実はテニー氏の名前が登場します(原書50ページ、9月11日の項)。

レスター・テネンバーグ(イリノイ州、シカゴ):「私たちは雲が地面から長崎上空へと湧きあがるのを見て、感嘆したが、それが原子爆弾だったと知ったのは〔日本の〕降伏後だった。」
(私訳。私は邦訳の方は買わなかったので。)

テニー氏の回想にもこの時のことは記されていました(261ページ)。ただし日付には記憶の混乱があるようです。

 翌日〔8月19日〕、『シカゴ・トリビューン』紙のジョージ・ウェラーという米国人の新聞記者が私たちの収容所にあらわれた。一体どうやって彼はここまでたどり着いたのだろうか。私たちは彼に質問しようとしたが、反対に彼は、日本人と私たちの戦争についてすべてを話しはじめた。彼は原子爆弾がどのように、なんのために投下されたか、その恐るべき影響などについて説明してくれた。次に彼はシカゴ出身者の数人にインタビューを求めたので、私が応じた。さらに私はボブ・マーチンとジム・バシュレバンを紹介してやった。