『東京裁判の教訓』

「序章」によれば「東京裁判がもっている三つの側面、つまり裁く側の論理、裁かれる側の責任、そして判決を下した側の史実判断を俯瞰しながら、あの裁判は今、私たちに何を教えてくれるかを考えてみた書」(「俯瞰」のルビを省略)であり、「歴史に刻まれている史実のなかから、歴史的に普遍性をもつ教訓を学ぼうとする点に、本書執筆の重点が置かれている」とのこと。
帯には「新資料でその意義を問い直す」とあり、実際に国立公文書館が2006年から徐々に公開しはじめた東京裁判の証拠文書、また保阪氏がかつて関係者を通じて入手したという東條英機巣鴨日誌などが援用されているのだが、誰もがあっと驚くような新事実が暴露されているというわけではない。その意味では地味な「新資料」ではあるが、きめの細かい東京裁判認識のためには今後重要性を増してゆく資料なのかもしれない。
援用されている「新資料」の一例を挙げると、清瀬一郎が鈴木貫太郎から聴取した供述書(138-9ページ)がある。ポツダム宣言にいう「戦争犯罪人」をどのように理解したうえで受諾したのか、という点に関わるもので、鈴木元首相の回答は(保阪氏も指摘する通り)なかなか興味深い。


多くの論者がそうであるように、本書も東京裁判には「功罪」があるとするが、保阪氏が「罪」として挙げるのは第一に「共同謀議」概念であり、第二に軍政の責任者が裁かれ軍令の責任者が被告にすらならなかった(各地のBC級戦犯裁判ではもちろん被告になったケースがあるわけだが)、という点である。前者について秦郁彦氏は「ナチス戦犯を裁いたニュルンベルク裁判のように、共同謀議理論を全面的に日本へ適用するのは無理らしいと途中で気づいた判事団が、既存の国際法で承認されている残虐行為などの戦場犯罪責任を併合できるものだけに死刑を科す方針に、切りかえた」のであって「この批判は実質を観察すると必ずしも当たっていない」と評価しているが(『昭和史の謎を追う』、第30章)、戦前の日本の政治的・軍事的意思決定システムをどうとらえるかという問題とも関わる、大きな論点ではあろう。


なおパル判決書については、(パル判事をむやみに称揚する風潮を念頭においてのことか)予想以上に厳しい評価がくだされている。

 粟屋〔憲太郎〕も指摘するようにレーリンクの見解は、自らの偏見や思い込みによる誤解があり、それをもとに日本の国情を理解していることは否めなかった。むろんそれはレーリンクだけではなかった。パルもまたそうだった。そういう誤解に関していえば、確かに多数派の側にはそうした例はなかったのである。
(223ページ)

 パルは「孤高の正義の人」としてこの裁判を客観的に見ただけであり、しかしその論点の根拠となっている史実そのものは今やその根拠になりえていない。それゆえにパル判決書は、東京裁判の段階で終わっていると解釈すべきであろう。
(245ページ)

 パルは判事席で、検事側が五十五の訴因について立証していくプロセスを真面目に聞いていたのだろうか。むろん検察側の立証の全てを認めるわけにはいかないが、しかし被告人の側にあってもこのような認識で国が動いていたと判断するのはあまりにもおかしい。このようにパルは史実そのものを正確につかもうとせずに、自らの政治的立場を補完するために東京裁判を利用したといっていいのではないだろうか。
(246-7ページ)

最後の点についていえば、パルは「来日したときから、被告全員無罪の意見を固めており、帝国ホテルにこもって意見書を書きつづけていた」「夫人を看病するため長期、帰国し一〇九日も公判を欠席していた」(粟屋憲太郎、『東京裁判への道 下』、講談社選書メチエ、182ページ、ただし名前の表記は「パール」)とのことなので、不真面目さのゆえではないにしても検察側の立証活動にはあまり意を払っていなかったとは言えそうである。