12月の戦争関連番組(その1)
はてなからメールが来て気づいたのですが、はてなダイアリーからはてなブログに移行してちょうど1年になるんですね。更新する頻度が落ちているせいもあるでしょうが、なかなかこのインターフェースに慣れません。
今年もアジア・太平洋戦争に関わるドキュメンタリーがテレビで放送されたときにはなるべく録画するよう努めていたのですが、読者の方からお知らせをいただいていたのに見逃してしまったのがフジテレビ系列の石川テレビが制作した辻政信についてのドキュメンタリー「神か悪魔か」です。関西テレビでは12月5日未明の2時50分から放送されたのですが、これを「5日深夜2時50分=6日未明2時50分」だと勘違いして録画予約が間に合わなかったためです。
なので番組サイトを見ていてちょっと思ったことを。番組ディレクターは次のように述べています。
戦争で命を落とした人々の無念を思えば、責任を逃れて生きた辻への批判はあってしかるべきだと思います。一方、これから戦争を語りつぐ上で、その責任が“個人”にばかり向けられていることに、私は違和感を覚えました。戦争の悲劇は、誰かがいたからではなく、誰も止められなかったから起きたと考えるからです。
しかし歴史学者がアジア・太平洋戦争について書いた著作を読んでいると「その責任が“個人”にばかり向けられている」というのは当たらないのではないかと思います。歴史修正主義者からもっとも敵視されている歴史学者の一人は吉見義明さんでしょうが、吉見さんの本を実際に読んで「個人」の責任ばかりが追及されているという印象をうけるひとはまずいないのではないかと思います。笠原十九司さんの文章は吉見さんよりは“熱い”ですが、やはり特定個人の責任追及に主眼が置かれているとは思えません。
歴史学というのが「構造」の記述を目指しているのだとすれば、これは当然のことです。むしろ保守系の評論家が歴史について書くものの方がよほど「個人」を焦点化する傾向があるのではないでしょうか。歴史教科書についても右派の方が(批判ではなく顕彰のためという違いはあれど)個人の事績をとりあげるよう主張してきたはずです。
右派のクリーシェのひとつに「現在の価値観で過去を裁くな」がありますが、実のところ右派が好む歴史記述の方が「個人」を焦点化しているという点で「裁き」に親和的だろうと思います。そして歴史修正主義に対抗していくうえでの困難の一つは、「個人」に焦点化した歴史記述の方が一般受けする、という点にあるのではないか、とも。現にこの番組のタイトル「神か悪魔か」も辻という「個人」の評価を前面に出したものになっているわけで……。