受忍論を拒否せよ

神戸連続児童殺傷事件から25年ということで放送された関連ドキュメンタリーを2本見ました。

www.ktv.jp

www.ntv.co.jp

いずれも今年に備えて何年にもわたって取材を続けてきたことがわかる内容でした。ただ、二つの番組を見ながらどうしてもあることが気になって仕方ありませんでした。

どちらの番組でもとりあげられていたのが、加害者から被害者遺族に送られてきた手紙が数年前から途絶えていることです。殺害された男児の遺族も女児の遺族も納得のゆく説明や謝罪がないままに手紙が途絶えたことにやりきれなさを感じており、番組はそうした遺族の気持ちに寄り添っています。

しかしその一方で、私たちは「いつまで謝らせれば気が済むのか」と言い募る「加害者」の存在をよく知っています。納得のゆく説明や謝罪を受けていないという気持ちは同じでも、そうした被害感情をいだき続けていることをなじられる被害者・被害者遺族がいることを知っています。

私はこのブログを始めたころからずっと、刑事犯罪の被害者に対するこの社会の態度と、戦争の被害者に対するこの社会の態度との鮮明すぎる違いに関心をいだき続けてきました。この違いが狭義の歴史修正主義的な動機だけで説明できないことは、日本の空襲被害や沖縄戦の被害に対しても「いつまで言ってるんだ」「カネ目当てだろう」といった誹謗があることで明らかです(もちろん、刑事犯罪の被害者・被害者遺族に対する攻撃を引き起こすトリガーがあることは事実ですが)。この問いへのはっきりした答えを手にしたわけではありませんが、為政者が振りかざす「受忍論」のロジックを内面化していることが一つの要因なのだろう、という感触は得ています。「多くの人間は“戦争だから仕方ない”と諦めているじゃないか。なぜお前はことを荒立てるのか」、と。

しかし戦争は自然災害ではありません。刑事犯罪と同じく、人間の為すことです。戦争指導者を免責するための「受忍論」など拒否すべきなのです。