固有名詞としての南京事件

ここで問題にしたいのは、「たしかに虐殺はあったが“大虐殺”はなかった」といったタイプの言説である。この手の議論は、要するに「虐殺」という普通名詞に「大」という形容詞をつけるのが妥当かどうかを問題にしているわけだ。だがこれは的外れであろう、と私は考える。「たとえ3万人でも大虐殺だから」ではない。この歴史的な出来事の呼称は「固有名詞」だから、だ。例えばアメリカ人が「ナチによるユダヤ人の被害者よりは数が少なかったのだから、45年3月20日の東京空襲を“東京大空襲”と呼ぶべきでない」と言ったとしたら、あなたは納得するだろうか?
犠牲者数に関する検証は歴史学的に行なわれてよいしまた行なわれてしかるべきである。しかし本来なら、大虐殺直後に日本軍ないし日本政府ないし日本のマスコミはきっちりした調査をしてしかるべきだったのだ。というのも、当時の軍法に照らしても国際法に照らしても当時の道義的水準に照らしても正当化しえない殺害が(件数はともかくとして)行なわれたことは確実だったのだから。その当時きちんと調査をしておけば今日犠牲者数の水増しを許すこともなかったのだし、事件に対する命名権(大虐殺ではなく虐殺だ、とする)を主張することもできただろう。だが日本はそうした調査をしなかった(あるいはしたけれども公表していない)。とすれば、事件の呼称に関するかぎり被害者側の命名権を認めるのがスジというものである。
(旧ブログの記事の要旨を転載)