まあ結局のところ…


※「バターン死の行進」とか『ホテル・ルワンダ』とかをめぐって

 まぁあれですな。大山鳴動して歴史修正主義、ですか。いろいろと参考にはなりました。

 あちこちでコメントしたけれども改めて確認しておけば、問題とされた町山智浩氏の一文はルワンダ虐殺事件についてのものではなく、さらには映画『ホテル・ルワンダ』についての総合的な批評でもなく、監督テリー・ジョージが主役にドン・チードルを望んだという事情についてのものだったわけだ。したがって、あらゆる町山批判はこの文脈において自己を正当化せねばならない。町山氏はルワンダ虐殺と関東大震災時の朝鮮人虐殺があらゆる点からみて同質だなどとは主張していないし、要するに「理不尽な暴力が吹き荒れるとき、しかも傍観していれば自分だけはその暴力を逃れることができるような状況で、あえて被害者を助けることができる人間になれるか」という問いを(彼が想定した)日本人の読者に身近なものとして提出するために、関東大震災時のエピソードをひきあいに出したに過ぎない。これに対して、「関東大震災に言及するだけでは足りない」という批判ではなく、「関東大震災に言及するのは余計だ」という批判が向けられた、というのが出発点である。

 「日本の過去の汚点についてこれ以上聞かされたくない」という叫びは、少なくとも正直だという点でまだましだ。しかしながら、偽ユダヤ人がアウシュヴィッツに言及した文章をひきあいに出してまで「(日本人の)子どもをアウシュビッツに送らないためだ」と主張するのはどうだろうか? 現代のルワンダと100年前の日本の状況の違いにこだわる人間なら、当然現代のルワンダと現代の日本の状況の違いに留意するのがスジというものだろう。では現代の日本、ないし東アジア情勢に鑑みて、「日本人によってジェノサイドされたという記憶のゆえに日本人がジェノサイドの対象となる」という危惧がどれほどの現実性を持つというのだろうか? また町山氏の一文がそうした危惧をどれほど現実的にするというのだろうか? 私にはまったく荒唐無稽な危惧としか思えない。
山本七平
 「朝鮮戦争は、日本の資本家が(もけるため)たくらんだものである」と平気で言う進歩的日本人がいる。ああ何と無神経な人よ。そして世間知らずのお坊ちゃんよ。「日本人もそれを認めている」となったら一体どうなるのだ。その言葉が、あなたの子をアウシュビッツに送らないと誰が保証してくれよう。これに加えて絶対に忘れてはならないことがある。朝鮮人は口を開けば、日本人は朝鮮戦争で今日の繁栄をきずいたという。その言葉が事実であろうと、なかろうと、安易に聞き流してはいけない。
という論法は、「身内の恥をさらすな」というありがちなロジックではなく、「そんなこと言うと危険ですよ」というロジックでもって日本人に自らの過去のふるまいを正当化させようとするものだ、という点でそれなりに巧みなものではある(もっとも、「日本の資本家が儲けるために日本は朝鮮戦争に加担したのだ」という言明ならともかく、「日本の資本家が儲けるために日本は朝鮮戦争を企んだのだ」などという言明を少なくとも私は目にしたことがないが)。しかし、この論法がともかくも一定の説得力を持ち得たのは「冷戦」という状況があってこそのはなしである。現在の東アジア情勢に鑑みて、たかだか「でも関東大震災朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ」という一文が「あなたの子をアウシュヴィッツに送る」危惧を高めるなどというのは、本気で言っているのだとすればパラノイアとしか言いようがないし、為にする議論であるとすれば下衆すぎるとしか言いようがない。近年の中国なり韓国における反日感情にしても、その直接的な契機は過去の虐殺、蛮行というよりは、そうした過去を否認する動きが日本国内に見られる、という点であるのは明白ではないか? だとすれば、「でも関東大震災朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ」などと言うべきではない、という主張の方が「あなたの子をアウシュヴィッツに送る」可能性を高める、という方がまだしも合理的ではないのか?

現在の東アジア情勢を前提として、近未来において日本人が「ジェノサイド」の犠牲者になるという危惧が荒唐無稽だとして、逆に日本人が「ジェノサイド」の加害者になるという危惧についてはどうか? これも近未来に関して言えば、現実性のあるものだとは思わない。ネット上でヘイトスピーチが目立つほどにはいわゆるヘイトクライムが発生していないのは確かである。しかし「自らが犠牲者となる可能性よりも自らが加害者となる可能性に備えよ」という主張が倫理的な要請としてなにかしら不当性を持つだろうか? まして、町山氏は「今の日本はマイノリティのジェノサイドがいつ起こってもおかしくないから気をつけろ!」などといった煽りはしていないのである。マクロ的には近未来の日本においてルワンダと同じような状況が発生する蓋然性は非常に低い*1。しかしミクロ的には「隣人を守れるか?」という問いが意味を持つような状況はいま現在の日本においても決して縁遠いものではない(また、想定された日本人の読者が海外でそうした状況に遭遇することだってありうる)。『ホテル・ルワンダ』の監督テリー・ジョージドン・チードルのキャスティングにこだわった理由について解説し、ポール・ルセサバギナ氏をめぐるミクロ的な状況に的を絞った文章において、「でも関東大震災朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ」という一文がなぜ的外れだというのだろうか?
「でも関東大震災朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ」という一文が、今の東アジア情勢においては日本人がジェノサイドの犠牲者となる危険性を高める…この主張を具体的な状況に即して説得的に論証できない限り、問題の一文を削除すべきだという主張の背後に透けて見えるのは「日本の過去の汚点についてこれ以上聞かされたくない」という欲望であり*2、「祖父母・曾祖父母の罪を暴くべき対象ではない」という欲望であり、その欲望を正当化するための歴史修正主義的発想でしかない。「日本人は朝鮮人に憎悪の感情を向けていたわけではなかったし、そう思われるような事件もなく、その後もない」? マジですか? 3.1独立運動は無視ですか? 「日本は欧米の植民地になったことはなく(というか、戦後十数年を除くとどの国の支配下にもならず)、「植民地政策としての、外的に挿入された人種差別意識」というものが存在しない」?*3 「外的に挿入された」のではない差別意識ならば大丈夫、ってわけ?


文藝春秋』05年12月号の「「バターン死の行進」女一人で踏破」という記事もまた、結局は「「祖父母・曾祖父母の罪」を暴くなという欲望の発露でしかない。なにしろ、その骨子は

  • 人間は100キロ程度を4日間で歩いただけでは死なない
  • 元捕虜の証言は鵜呑みにできない(だけど日本軍の戦史は信用できる?)
  • 一番悪いのは兵士たちをマラリアなどに罹患させたアメリカ軍だ

でしかないのである。なんじゃこりゃ? まるでだだっ子だよ。B級戦犯について言えば冤罪があったり不当な量刑がみられたというのはまあ確かであろう(ただし、一部の人間が言い立てるほどにまで不当なものではなかった、という点についてはこちらを参照)。不思議でならないのは、日本の戦争責任を軽減しようとする人々がなぜ具体的に、そうした(サヨクでも認めるような)不当な判決の事例をとりあげ、名誉回復を果たすための努力をしないのだろうか、という点である。少なくとも相手が欧米諸国であれば、B級戦犯裁判の個々のケースについてその妥当性を具体的に検証してみせる試みが「歴史修正主義」と呼ばれることはあるまい。なのにこども騙しの理屈で南京事件マボロシだと言ってみたり、なんの具体的根拠もなしに元捕虜の証言は鵜呑みにできないなどというから「日本は戦争責任を否認しようとしている」という汚名を重ねることになるのである。「いまさらお祖父さん、お祖母さんの悪口言われたくないよね」って身内の理屈はたとえ英語で発表されようが中国語で発表されようが国際社会には受け入れられない。それこそ刑事事件の再審請求と同じレベルで「冤罪」「量刑不当」を訴えることができるのなら、それが日本語で書かれていたって普遍性をもつ訴えとなりうるのである。被害者の証言には復讐心が混じっているから信用できない、なんて理屈が刑事裁判で通用すると思う? するわけないんだよ。
また、SWCらからの抗議の対象となった「「バターン死の行進」女一人で踏破」という記事を読んでもいない(と称している)のに、つまりはなんら具体的な根拠もなくその抗議が不当なものだと憶測してみせるのも、偽装された歴史修正主義にほかならない*4。頑として「「バターン死の行進」女一人で踏破」を読もうとしない(ないし読んだとしても読んでいない振りをする)のがその証左である。あれほど稚拙な歴史修正主義的言説を擁護しようと思ったら、それ以外に方法はないんだから。相ついで起こった今回の“騒動”は、「身内の恥を外に漏らしたくない」という欲望がどのような偽装をとりうるかを明確にした、という点できわめて興味深かった。


保守のモラルはしばしば「リベラルは犯罪者に甘い」と批判する。虞犯少女の親を打ち首にせよという発言を支持するのも、松本智津夫の娘が大学入学を拒否されるのは当たり前だと考えるのも、沖縄少女暴行事件で容疑者の家族が容疑者をかばう発言をするのはけしからんと考えるのも、すべて保守のモラルと親和的な態度である。にもかかわらず、はなしが日本の戦争犯罪になると「祖父母・曾祖父母の罪を暴くな」となる*5。これは保守のモラルが「われわれ/彼ら」の非対称性を基礎としているのに対して、リベラルのモラルが「われわれ/彼ら」の交換可能性を基礎としていることを雄弁に物語っている(「身内の犯罪」を暴くことに保守派が消極的なのは、日本だけの特徴ではない)。保守のモラルは「われわれ」と「彼ら」の立場が入れ替わるかもしれないという可能性を考慮に入れない。誰一人「ルワンダ虐殺と関東大震災時の虐殺に違いなどない」と主張している者などいないというのに、あれほど「違い」に固執するのもそのためである。ある場合には自分(の身内)が犠牲者である(になる)という観点からのみ語り、別の場合には自分(の身内)が加害者であるという観点からのみ語る*6。問題はそれが「公正」な社会を支えるルール足りうるか、である。




(初出はこちら

*1:三国人」発言の都知事が再選を果たし、虞犯少女の親を「市中引き回しの上打ち首」にせよという国務大臣の発言が喝采を浴びる社会でそうした可能性がない、とはとてもじゃないが断言できない。

*2:その際町山氏の出自が参照されることがあるわけだが、彼の母親は日本人なのであって、この件に関して町山氏が“能天気に他人を断罪する”ことのできる立場にないことは明白なのに、そのことに言及されることはない。

*3:それにしても、他人の著作物を無断で全文転載しておいて、「ボランティアではありますが、ボッタクられすぎの気もするので、「はてなポイント」による投げ銭は歓迎します」などと言い放つのは一体どういう神経なんだろうかね。「説教強盗」ということばが頭に浮かんだ。

*4:ちなみに、この憶測は文藝春秋社が「どうせ説明してもわかってもらえんから、頭だけ下げておくか」という態度をとったという憶測でもあり、SWCやレスター・テニー氏への誹謗であると同時に言論メディアとしての文藝春秋社への誹謗でもある。

*5:だからこそ、「誰がSWCに伝えたか」だけに関心が集中するわけである。

*6:「自分が犠牲者である」と「自分が犠牲者になる」については双方が考慮の対象となるのに、「自分が加害者である」と「自分が加害者になる」では前者しか考慮の対象とならないところも興味深い。