補足3

Bill_McCreary 2010/06/15 22:37
私もこの本は現在読んでいる最中です。なかなか三光作戦の本はないので、貴重ですね。
(後略)
(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100613/p1#c1276609051)

ミネルヴァ書房刊の『大量虐殺の社会史』(松村高夫・矢野久編著)では第11章「現代に生き続ける医学の歴史的犯罪」で731部隊の人体実験や細菌戦が扱われているほか、松村高夫氏の執筆した序章でも日本軍による(ないし日本における)大量虐殺の事例がいくつか例示されているのだが、南京虐殺はもちろんのこと平提山事件や重慶爆撃への言及はあるのに、「三光」作戦と東南アジアでの華僑虐殺には触れていない。もちろん例示であるから漏れがあるのは当然ではあるが、しかしこの二つは他の戦争犯罪・国家犯罪と比較してももっともジェノサイド的な性格が強い*1わけで、“すべてを列挙することはできない”のは当然だとしても、少なくともいずれかは代表的な事例としてあげるに値したのではないだろうか。
なお、山本昌弘氏の論文、「華北の対ゲリラ戦、1939-1945」(戸部良一・波多野澄雄共編、『日中戦争の国際共同研究 2 日中戦争の軍事的展開』、慶応義塾大学出版会、所収)の結び部分で、山本氏は「三光作戦」を「ホロコースト」「ジェノサイド」「絶滅作戦」と呼んで「ナチスと比肩させる意見は妥当なものとは思われない」(212ページ)と主張し、註では「ナチスと比肩させる意見」の持ち主として姫田光義氏の著作と並んで笠原十九司氏の『南京事件三光作戦』(大月書店)をあげている。これに対して『日本軍の治安戦』で笠原氏は「筆者と見解が異なる」と見解の相違を確認している(232ページ)。
二つの事象の間で共通点を探そうと思えば必ず見つかるものだし、相違点を見つけようと思っても必ず見つかるものだということ、またホロコーストと類似しているから悪いとか違うからさほど悪くないというものではないということ、この2点を確認したうえで。山本氏はホロコーストが「政治的イデオロギーや人種理論に基づいて行なった絶滅政策」であったのに対し「三光」作戦には「明らかな戦略上の目的」があった点を両者の相違点としている。しかし「三光」作戦の場合も「反共」というイデオロギーは無関係ではなかった。また「三光」作戦についての吉田氏の次のような記述は、ホロコーストが「追放」政策から「絶滅」政策へと変化してゆくプロセスを想起させるところがある。前線の将兵の意識が「治安地区」と「未治安地区」で異なっていたという証言を前提として。

 「未治安地区」で残虐行為が行われたということは、方面軍が近い将来にそこを「准治安地区」や「治安地区」に格上げすることを放棄したと見るのが妥当であろう。その企図を放棄した最大の理由は、現地住民を味方につけるというやり方が政治的、大戦略的制約から難しくなったからに他ならない。そして、その制約要因は経済的、政治的、軍事的なものにまたがるが、ほとんど華北以外に由来するものであった。
(山本前掲論文、211ページ)

華北以外に由来」する要因とは、例えば戦局の悪化に伴い華北での食料収奪を強化せねばならなかったことなどを指す。
もちろん私としても、単に「三光」作戦の“邪悪さ”を強調するための手段としてホロコーストになぞらえるようなことがあるとすればそれには賛成しないが、山本氏の議論はホロコーストについてのかなり単純化された認識を前提にしているように思われ、やはりそのままでは受け入れ難い。

*1:「三光」では殺害の対象が民族集団や宗教集団ではなく政治的イデオロギーで選択されていることとか、何れの場合も公式な命令で殺害の対象とされているのは基本的には青壮年の男性に限られているとか、典型的なジェノサイドとは異なる点もあるにせよ。他に「ジェノサイド的性格」という点で匹敵するものとしては関東大震災時の朝鮮人虐殺だろう。