『マルコポーロ』廃刊事件について

ここでのやりとりのなりゆきで、かつて月刊誌『マルコポーロ』が「ナチ「ガス室」はなかった。」という記事を掲載し、サイモン・ウィーゼンタール・センター等の抗議をうけ、結局廃刊に至ったという事件にまつわる事柄が問題になっております。
この事件については、個人的にそれどころじゃない状態だったので(問題の1995年2月号は1月17日発売)リアルタイムでは「へぇ、そんなことがあったの」といった程度の印象を抱く余裕しかなかったのですが、振り返って考えるならば「編集長がアホ」というのが結論です。そもそも、本職は内科医という西岡昌紀が書いたこの記事自体、「ガス室」否定論(ホロコースト否定論)の定番をなぞっただけで、なんら新味はなかったわけです。ナイーブな人がホロコースト否定論の言説に初めて接触して「ええっ、そうだったのか!」と思ってしまうのはまあ世間に時々あることなのでしかたないともいえますが、日本を代表する出版社の一つ、文藝春秋社が発行する雑誌の編集長がなんの心構えもなしにこの記事を掲載してしまった(としか思えない)のは、「アホ」と言うか「オトナの常識」に欠けているとしか思えません(ちなみにリンク先の雑誌の編集長は、今は亡き『マルコポーロ』の編集長です)。どこが「アホ」かといえば
・西岡記事の内容が、まったく目新しいものではなく、すでに論破済みのものであることを知らなかった
・「ガス室」否定論を掲載した場合の反響を予想していなかった
・「廃刊」といういかにもヘタレな幕引きをした(これは編集長だけの問題とはいえませんが)
の3点ですね。一体どう言うつもりでこの記事を掲載したのか、当事者に問い合わせたことなどない以上想像にすぎませんが、まあ日本は南京事件否定論が雑誌に載っても広告ボイコット運動なんて起きない国ですから高をくくっていた、というのは確実でしょう。せめて否定論の中でも斬新な説であったのならまだ救いはあったのですが、「とにかく定説に逆らう記事ならなんでも載せちゃえ」というんであれば『ムー』と変わらないわけです。担当編集者なり編集長がちょっと裏取りをすれば「これは軽々には扱えないネタだな」ということはわかったはず。それでもあえて掲載するというなら、その「自由」は形式的には擁護されてしかるべきかもしれない。しかし「言論の自由」を盾に記事の掲載を正当化するのなら、たかだか広告ボイコット運動くらいで廃刊すべきじゃないということになる。なにしろ一般に600万人とされる犠牲者がでた出来事に関わる記事なんだから、掲載する以上それなりの覚悟があってしかるべきです。SWCの抗議方法が「高圧的」だとかなんとか当時言われたわけですが、公権力ならいざ知らず民間団体が可能なリソースを動員して雑誌メディアの記事に抗議することがけしからんというのはそれこそ「言論の自由」を踏みにじることにほかならないわけです。文藝春秋社にとって痛くも痒くもない方法でしか抗議できないのなら、結局「書いた者勝ち」を容認することになってしまいます。「言論の自由」はそうした事態を正当化するための理念ではない。
要するに、「売らんかな」の雑誌がろくに背景調査もせずに引き写しの記事を掲載し、批判に尻込みして全面降伏した、としか評価のしようがない事件です。

さて、この事件を受けて、当時パソコン通信の世界でいろいろな動きがあったようです。その一部がここで(ログの捏造という可能性を排除すれば)記録されています。そこで著者の西岡昌紀および文藝春秋社にコンタクトをとった上で問題の記事を転載している人物は、次のように述べています。

【おまけ:このファイル作成者の姿勢】(西岡氏の姿勢とは異なります)えーと、私(HEA84230)は「ユダヤ人に対してドイツがしたことは、何が何であろうと、無条件で悪い」と思っております。ただ、「五万人殺した人間(たち)は、百万人殺したということにしてもよいのか」と訊かれたら「それはちょっとマズいかも知れない」と答える立場は保持したいと思います。要するに、真実はどのようなものであったか、に関して意見交換をする自由はありたいもの、ということで。


マルコポーロ」誌に掲載されました西岡氏の「論文」(ってただの「記事」なんだってば)を読んだ私の感想は、広島の原爆にたとえるなら「原爆はなかった」という主張では全然なく、「広島での原爆での死傷者数」「原爆によるガン患者の数」に疑義を持つ、というような、反ユダヤ主義でもネオ・ナチズムでもない、「証言だけで真実を決めないで、実証主義でいきたいものです」という、当たり前のことを当たり前に言っているだけのように思えました。ところが、その発言は掲載された雑誌が回収・廃刊され、ズにのった大手マスコミ・マスメディアの発言者は、西岡氏の発言が一般には読めないことをいいことに、西岡氏が言ってもいないことを言ったと言ったり、「ガス室はなかった」(というのが西岡氏の基本的主張なのはマルコ誌の見出しでも明らか)というのを「大虐殺(ホロコースト)はなかった」と言っていると言ったり(だから、「(現状の施設によるような)ガス室によっての大虐殺はなかった(できなかった)と思う」と西岡氏は言ってるんだってば)、言いたい放題述べている、という状況が出て来まして、これは何とかしたいものよ、と、とりあえず西岡氏に連絡を取りまして「パソコン通信という面白げなメディアがあるんですけど、いかがなもんでしょうか」とお伺いして、ゲリラ的にこのようなものを作り、この問題に対してより深く一般的な、偏向していない意見交換ができるようにしたいと考えた所存であります。
(改行位置変更、以下同じ)

で、これが“『マルコポーロ』の「ナチ『ガス室』はなかった。」という記事(および著者の西岡昌紀)を擁護していたテキスト”であると言うべきかどうか、というのが lovelovedog さんと私との現在の争点になっているわけです。
結論を先にいえば、「間違いなく擁護になっている」ということになります。なぜか? なによりも決定的なのは、ホロコーストガス室)否定論をめぐる欧米での議論の蓄積を無視して、あたかも斬新な論点であるかのように扱っている点です。悪意はなく単なるナイーヴさのなせることなのかもしれませんが、結果として「擁護」になっていることに変わりはありません。また、

「五万人殺した人間(たち)は、百万人殺したということにしてもよいのか」と訊かれたら「それはちょっとマズいかも知れない」と答える立場は保持したいと思います。

というあたりもじつに示唆に富んでいます。すなわちここで「百万人殺した人間(たち)が五万人しか殺していないということにしてもよいのか」という対称的な問いが無視されていること*1、また例えば「四百万人殺した人間(たち)は、六百万人殺したということにしてもよいのか」という表現ではなく、あえて「五万人」「百万人」という数字が選択されていること、です。
なお、

ガス室はなかった」(というのが西岡氏の基本的主張なのはマルコ誌の見出しでも明らか)というのを「大虐殺(ホロコースト)はなかった」と言っていると言ったり(だから、「(現状の施設によるような)ガス室によっての大虐殺はなかった(できなかった)と思う」と西岡氏は言ってるんだってば)

というのも、「ガス室」否定論がどういう文脈でどのような機能を果たしているかについて無知であってはじめて言えることでしょう。それをいうならそもそも「反ユダヤ主義でもネオ・ナチズムでもない」という認識は、メディア・リテラシーの欠如を反映しているとしか思えないのですが。


追記
上でも引用した

ガス室はなかった」(というのが西岡氏の基本的主張なのはマルコ誌の見出しでも明らか)というのを「大虐殺(ホロコースト)はなかった」と言っていると言ったり(だから、「(現状の施設によるような)ガス室によっての大虐殺はなかった(できなかった)と思う」と西岡氏は言ってるんだってば)

という箇所について補足です。結論を先にいえば、転載者によるこの西岡擁護論は欺瞞もいいところです。なぜか? 『マルコポーロ』に掲載された記事の結び近くで、西岡氏は強制収容所の目的が「ユダヤ民族の絶滅」ではなく「東方地域への移送」だった、とはっきり主張しているからです。この記事は次のような言葉で結ばれています。

 アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所で生命を落としたユダヤ人達の運命は、悲惨である。彼らは、その意志に反して各地の収容所に移送され、戦争末期の混乱の中でチフス等の疾病によって生命を落としていった。その運命の悲惨さは、日本軍によって苦しめられた中国の民衆や、原爆の犠牲者と同様、現代に生きる我々が、忘れることを許されない今世紀最大の悲劇の一つである。現代の世界に生きる我々は、それを忘れる権利を持たない。しかし、そうであるからこそ、真実は明らかにされなければならないし、虚構を語ることは許されないのである。
 この記事をアウシュヴィッツその他の地で露と消えたユダヤ人の霊前に捧げたい。
http://turugi10.hp.infoseek.co.jp/marco/marco4.html

殊勝なことを言っているようで、強制収容所での死の原因を「チフス等の疾病」に矮小化しているわけです。これは明らかに単なる「ガス室」否定論ではなく、ホロコースト否定論に他なりません。そういえばこのロジックは、「バターン死の行進」の主要な責任を「米比軍の医療体制」に求める笹レポートと同じですね。



(初出はこちら

*1:ホロコーストに限らず、とかく犠牲者の数を少なく見積もることにご執心なとある人物のことを連想しますが、まあ憶測にすぎません(w