逆ギレですか…

thefort 氏の "It's anything"
自称理詰め?を理詰め?ですかね?やり方がアホみたいですが。
自称理詰め?を理詰め?ですかね?やり方がアホみたいですが。2
思考停止した人と議論をすると疲れる


結論を先にいえば、ひとこと「伝聞ばかりというのは認識不足に基づく言い過ぎでした」と言えばよかったんですよ。そうすりゃこちらももっと別の語り方ができたんですけどね。しかしへんな意地をはって間違った認識に固執してるんだからしかたないですね。


広辞苑』第4版によれば「伝聞」は「 つたえきくこと。人づてに聞くこと。」とされており、「伝聞証拠」という参照項目に「〔法〕事実認定の基礎となるべき実見事実が間接的な形で裁判所に報告された証拠。供述書・供述録取書・伝聞供述がこれに当る。」という解説がある。私は実は thefort 氏が最初から「反対尋問によるテストを経ない供述証拠」という意味で「伝聞」を用いていたかどうか疑わしく思っているのだが(だって、そうだとするとあまりにナンセンスな主張になるから)、この点は譲るとしても歴史教育について論じている文脈で「伝聞」という語を使えば、「人づてに聞くこと」という一般的な意味に解釈するのがまずはふつうだろう。なのに

事実認定の話なんですが?歴史学だって、事実認定の一場面でしょう?
異例?貴方は、歴史学者かなんなんですかね?

と逆ギレである。いや、あなたこそ歴史学者かなんかですか? 別に歴史学者じゃなくても、歴史学者が書いた本を読んでいれば「反対尋問によるテストを経ない供述証拠」という意味で「伝聞」ということばを使ったりしないことはわかると思いますが。「事実認定」であることは同じだから「伝聞」の意味も同じであるはずだ、というのですか? しかしひとくちに事実認定と言っても、その目的によって異なる基準が必要となることは明白だと思いますが。

歴史学の文脈ってそもそもなんでしょうかね?

“刑事裁判ではなく、歴史的出来事や歴史教育について議論している”という文脈、に決まってるじゃありませんか。

裁判上で行なわれている、事実認定も、過去の事実を対象とするわけで、同じ要素をもっているんですが、まあ、それを、「使われ方が異例」だから、おかしいのでしょうか?

ちゃんと私のエントリを読みましたか? 私は「まあこれはいいでしょう。つい自分に馴染みのある意味で「伝聞」を使ってしまった、と。」と書いてますよね? そのうえで「反対尋問によるテストを経ない供述証拠」という意味で「伝聞」を使うなら、ほとんどの歴史的出来事は「伝聞証拠ばかり」なのであって、ことさら南京事件についてそう述べるのは無意味ではないか? と指摘したのですよ。
私が挙げた「本能寺の変」についてのレスポンスがこれ。

なのを勘違いしているのか知りませんが、当時の様々な記録で明らかになっていることに、誰も文句はつけないでしょうね?


例えば、五山の僧の日記や南蛮寺の記録など、他の立場から見て、利害関係を持ってすらいない人の記録に現れているわけですから?


で、別に、そういう、事実上、判断が容易な、事例を南京事件と比較する意味がわかりませんが?

その「五山の僧の日記や南蛮寺の記録」も全部「反対尋問によるテストを経ない供述証拠」ですな。そうした意味での「伝聞証拠」が存在しているのは南京事件も同じ。で、「反対尋問によるテストを経た供述証拠」も南京事件については存在している、というのは私が指摘した通り。本能寺の変の方が「判断が容易」と考えるのは単に thefort 氏の思い込みにすぎない。

自分の不利益なことを事件まもなく認めているのであれば、信憑性が高いと判断できますけど、事件経過した後、かなり時間が経ってから、認めてもね。


本人がやったと、より恣意性の入らない証言が先行して存在しているか、或いは、他の証言で、それが補強できなければ、任意性はないんですけどね。

戦闘詳報とか陣中日誌なんかはリアルタイムで書かれてるんですよ。で、それを読めば捕虜を殺害するよう命じられて実行したことがわかるんです。戦後の「証言」はそうしたリアルタイムの証拠によって立派に「補強」されています。任意性を問題にするなら、むしろ「捕虜殺害なんてなかった」という証言の任意性こそ疑われるべきです。戦争犯罪について証言する元兵士・将校には戦友会などから圧力がかかる、というのは有名なはなしですよ。
それに「かなり時間が経って」からの証言だと特にディテールについての信頼性が落ちる…というのならわかるけど、なんで任意性まで疑われなきゃならないのか、さっぱりわからない。

たかだか、ロッキードに触れたぐらいで、刑事訴訟が完全に理解できる、すばらしい見識の持ち主なんでしょうね。きっと。

なんか頭に血がのぼってわけが分からなくなってるみたいですね。私は単に「反対尋問によるテストを経ない供述証拠」という意味での「伝聞」の用法を承知している、と主張しただけです。

で、いつ、公判が開かれました?貴方の考えている公判がなんなのかは知りませんけど。

悪いけど言っちゃう。バカじゃない? 「反対尋問によるテストを経ない供述証拠」なんて概念持ち出したのはあなたでしょ? 南京事件に関して「反対尋問によるテストを経ない供述証拠」なんて概念使って論じるなら、南京事件論争を一種の裁判になぞらえることになるじゃないですか。自分が「公判」になぞらえておいて「いつ開かれました?」だって…。

城壁に接する市街部と東南部郊外の焼き払いは中国軍、城内と近郊農村の焼き払いの多くは日本軍、略奪と暴行は日本軍、一月下旬以降中国人による略奪と強盗、後に建物の破壊、農村部での深刻な強盗の増加(日本軍に匹敵、時にこれを凌ぐ)という記述部分は、岡村寧次大将陣中感想録とはそれなりにかけ離れている部分もありますけど?

だからどうしました? 岡村大将にとって関心の的であったのは自分が指揮する軍隊の軍紀ですから、中国軍・中国人による放火や略奪が無視されていてもなんの不思議もありません。調査方法も違うわけだし。

南京攻略戦「後」とされていない記録と、南京攻略戦「後」であることが明らかな記録とを突きつけられても、それが、肯定説の言う大虐殺までの記録といえるのかは、疑問だったりしますけど。

すいませんが、意味がよく分かりません。

否定説は、反証していますが、それに対して、肯定説の方が、「なかったこと」を証明しろ、と叫びつづけている段階なんですけどね。


で、そういう不毛な議論から離れるために、できる限り、個別の事実認定をできるように証言や客観的証拠を積み上げてゆくべきと、僕は思っているんですが?

いいえ違います。「そんなデタラメは反証になってない」と個別の論点ごとに再反論しているのですよ。それとは別に事件の全体像を再構成する作業はもちろん続けられています。やっぱり否定論者の文献しか読んでないのでは…という推測は正しかったのかなぁ。それとも「肯定派」はネット上にしか存在しないとでも思ってるのだろうか。とりあえず最新の研究成果の一つが前にも言及した『現代歴史学南京事件』(笠原十九司・吉田裕編、柏書房)ですから、せめてこれ一冊くらい読んでみてはいかが? サヨク学者の本なんて読めるか! というのなら秦郁彦の『南京事件』(中公新書)でもいいですよ。

異例だから、不当なんですか?何にも論証されていないんですけど?異例が不当な理由が論証されていませんが?

あなたが読み落としているか理解できなかったかのいずれかであって、ちゃんと書いておきましたよ。「反対尋問によるテストを経ない供述証拠」に基づいて事実認定された歴史的出来事を教科書に記載する場合には但し書きが必要だ、などと言い出したら歴史教科書は但し書きだらけになってしまう、ということです。小倉弁護士もこの点論じておられますからぜひご参照ください。
以上、一つ目のエントリについて。

どこらへんが馬鹿にしたんでしょうかね?ソースを?

南京事件の証拠は「伝聞」ばかりだから内容は確定していない、という発言ですよ。繰り返します。「伝聞」をどう理解したとしてもこの認識は根本的に間違っています。そのことは秦郁彦の『南京事件』一冊読めばわかる。関心がないなら黙っていればいいものを、知りもしないことについて訳知り顔で「伝聞ばかり」なんて言うのが現代史学者への侮辱でなくてなんですか?

僕は、歴史学者でも確定できない部分があれば、それは、確定できないとして教えるべきだ、と主張しただけなんですが?

そもそも南京事件に関する教科書の記載は、歴史学者の間で見解が分かれているような部分まで踏み込んでないでしょ? なのにそれ以上どんな但し書きが必要だというのですか。

古代史は、ある程度歴史学者の議論を参考に教えているのに、現代史が、そうではなくてよい、という論証はいつになったら出てくるんですかね?

はぁ? 南京事件についての教科書の記載は立派に「歴史学者の議論を参考に」したものですよ。東中野修道? 彼は歴史学者じゃありませんから。

はあ。歴史教育が目的なんじゃなくって、政府見解が正しい、ということを裏付けるための議論だったんですね?

違いますよ。問題は「南京事件の歴史教科書における記述は、但し書きをつけねばならぬほどに不確定な内容を含んでいるのか」です。教科書の記述が(検定を通じて)政府見解を反映しているのは当然でしょ? その政府見解を裏付けるに十分な証拠はあるから、現状の教科書の記述に文句つけるのはおかしい、ということですよ。

政治的に、戦後の責任をどう考えるのか、と歴史教育がリンクするんですね?

そんなことは当然じゃないですか。

つまり、
「一つ一つの証言は、単体では、伝聞に過ぎない。
伝聞を証拠能力あるものとして、信憑性や他の証言を積み重ねて、議論をして、事件の内容を確定させるという議論をするなら、ともかく、」
という内容なんですけどね。

だから「伝聞」ではない証拠も南京事件にはある、と言ってるでしょ? それから「信憑性や他の証言を積み重ねて、議論をして、事件の内容を確定させるという議論」はちゃんと歴史家によっておこなわれているんですよ。あなたは知らないんだろうけど。なんで素人がゼロからやり直す必要があるの?

僕からすれば、貴方のように、資料だけを提示して、否定説はおかしい、といっているだけの人が、否定説をのさばらせているとしか思えないんですけどね。

自分の知識不足をこちらのせいにするわけですか。
いいですか? もし数多くの資料をつきあわせ、信憑性を評価し、食い違う証言から真相を推理し、事件の全体像を描く…なんてことをやろうとすれば、大部の本に匹敵する量になることは理解できますよね? そんなものを仮に私がネット上で発表したとして、あなたそれを読みますか? そんなもの読むくらいなら歴史学者が書いた本読んだ方がましだ、と思うでしょ? で、そういう本はすでにちゃんとあるんですよ。紹介したんだから読んでみてくださいよ。それが嫌だと言うなら「肯定派がちゃんと議論しないのがおかしい」というのは単なる言い訳でしょ。南京事件関連資料をデジタル化してネット上で発表するという、たいへん手間のかかる作業をされている方々のことはすでに紹介しました。あなた、それに目を通しました? 否定論者に秦郁彦の本読めといっても読んでくれないわけですよ。それなら否定説の破綻をピンポイントで指摘するしかないじゃないですか。

(ちなみに、僕の認識は、ここで止まっている)

だったら教科書の記述にケチつけることないじゃないですか。あなたは自分の「認識」が止まっている地点を遥かに超えた発言をしてるんですよ。

が、個別の事例だと、日本軍がやったと思われるもの、中国人がやったと思われるもの、その両方が混在していて、一つ一つ検証すべきでしょう。


そこまでやった上で、言うのならまだしも、推測と推測を掛け合わせて、客観的といえる水準で実証されているなんていうのは、妄想に過ぎませんけどね。


学者の話や、証言をつなぎ合わせて、こういう、個別的事例が存在したことは確実だ、という点を一つでも探せれば、僕は、南京事件は但書なんてのせる必要はないと思いますけどね。
(強調引用者)

いやほんとなにも知らないんだなぁ…。山田支隊による幕府山での捕虜殺害が中国軍によるものだ、なんて説は聞いたことがありませんよ。

すごいお花畑ですね。貴方の場合は、結局、資料を出しただけ、相手を印象操作で批判しただけで、中身が何にもありませんよ?

いや「お花畑」はあなたでしょ。私は「南京事件の証拠は伝聞ばかり」というあなたの認識に反論したんです。「伝聞」の意味も含めて。東京裁判に出廷した証人の供述は「伝聞」ではないこと(もちろん、供述の中には「伝聞」も含まれているが、自身の体験を述べた部分のこと)を示せば十分でしょ? もし南京事件そのものについてトータルな議論をしたいのなら、せめて秦郁彦の『南京事件』を読んでください。読み終わったら連絡貰えますか? それから改めて議論をしましょう。

そんなに、暇じゃないですから。

そりゃこっちの台詞ですよ(w そもそも「伝聞ばかり」だと言い出したのはあなたでしょ? なら「伝聞ばかり」であることをきっちり論証する義務があなたにはあるじゃないですか。歴史的出来事について語る際に「反対尋問によるテストを経ない供述証拠」という基準を持ち出すことの正当性についても然り。また、とりわけ南京事件について「伝聞ばかり」であることを問題視する理由の論証も、です。こっちは東京裁判の証人の供述、という「伝聞でない証拠」の実例を挙げたんだから、なんでその内容までいちいち引用しないといけないのかさっぱりわからん。だって問題になっているのは証拠が「伝聞」であるかどうかという、証拠の形式であって、供述の内容が問題になってるんじゃないんだから。文句があったら自分で調べて再反論すりゃいいでしょうが。東京裁判での証言なら
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/
で読めますよ。これもちゃんと紹介済みでしたね。

そうそう、伝聞をそういう使い方であることを知っていても、殆ど無意味なんですけどね。
伝聞供述は、証拠能力は原則として「ない」という部分を知っていなければ、意味がないわけですよ。

ほんと脇の甘い人だなぁ。せめてこのエントリのコメント欄でのやりとりだけでも読んでいれば、私が刑訴法320条について承知していることはわかったはずなんですけどね。カッとなったからといって後先考えずに書くと恥をかくだけですよ。

南京事件に限って、この手の発言をすると、即座に、それは認識としてあやまっている、とぶちかます人がいるのは、不思議でしょうがないんですが?

いやだって、「伝聞証拠ばかり」という認識は間違ってるんですから。違うと言うなら東京裁判での証言も「伝聞」だと論証してくださいな。

言ってしまえば、政府公式見解と、歴史教育における歴史の問題と、政治的責任の問題としての歴史認識とは、完全に、異なるんですが?

素朴な人だなぁ…という印象です。ええ、印象ですけどね。

政治的裁判と、法律的裁判を一緒に論じてもね?
いっしょにしても良い、という論証がなければ、意味をなさないのは、当然ですが?

歴史的事実の認定という文脈に勝手に「反対尋問によるテストを経ない供述証拠」という概念を持ち込んだあげく、今度は「政治的裁判」だから反対尋問があってもダメだ、とでもいうんだろうか。失笑するしかないな(w
以上、二つ目のエントリについて。
三つ目のエントリは単なる泣き言なのでまともにとりあげるのも大人げないと思い、あえて触れないことにします。




(初出はこちら