「命令」という観点からみた南京事件

コメント欄が「打ち止め」に到達した某所には、後半になるとホロコースト否定論で有名な「命令書の不在」論法*1が出てきたことはすでにご報告したとおり。南京攻略戦の展開についてある程度の知識があれば「命令書」なんてはなしにはそもそもなりようがないわけだが、なにせ歴史教科書には詳しい記述がないものだから、「へぇ、そうなのか」と思ってしまう人が出てきてもおかしくはない。コメント欄で書き込んだことを転載・補足しておく。


まず当たり前のことだが、中支那方面軍の目的は「南京の攻略」であって「南京事件を起こすこと」ではなかったのだから、「南京事件の命令書」などというものはもともと存在するはずのないものだ。これを前提として「命令」という観点から南京事件を分析すると、この事件は「命令の不在」「命令違反」「命令(の実行)」とが絡みあって起こった事件だということができよう。

※命令の不在
日本軍が「中国兵の捕虜を殺してもかまわない」と当時考えていたことは多くの史料によってあきらかだが、もちろん南京攻略戦において日本軍が捕虜の殺害を目的として行動したわけではない(つまりなにがなんでも捕虜を殺すと堅く決意して作戦を立てたわけではない)。しかしながら、ほかならぬADON-K氏が「交戦法規ノ適用三関スル件」から引用した
帝国現下ノ国策ハ努メテ目支全面戦ニ陥ルヲ避ケントスルニ在ルヲ以テ日支全面戦ヲ相手側ニ先ンシテ決心セリト見ラルルカ如キ言動(例へハ戦利品、俘虜等ノ名称ノ使用或ハ軍自ラ交戦法規ヲ其ノ儘適用セルト公称シ其ノ他必要己ムヲ得サルニ非サル二諸外国ノ神経ヲ刺戟スルカ如キ言動)ハ努メテ之ヲ避ケ
という部分がものがたっているように、中支那方面軍としては公式には捕虜を収容することができない立場にあったわけである。つまり、戦闘詳報等に出てくる「俘虜」はあくまで便宜的な呼び方で、日本軍としては「俘虜収容所を設立して俘虜を収容する」という方針はもっていなかったし、当然そうした命令も出さなかった、ということになる。したがって、捕虜(特に多数の捕虜)を捕らえた現場の部隊は、兵士に食べさせる食料さえ「徴発」という名の略奪に頼っていたこともあり、困惑して指示を仰ぐことになったわけである。

便意兵狩り」についても、徹底的な掃討の命令こそあったが、では「どのような基準・手続きで便衣兵・敗残兵と民間人を識別するのか」という方針は示されておらず*2、ひどい場合には「面構え」で判断する、あるいは問答無用で殺すといったことになった。以上、事件が「命令の不在」によって起こった、という側面である。

※命令違反

他方、陣中日誌や日記によると、上官が制止するのも聞かず「戦友の仇」といって兵士が捕虜を殺してしまった、というケースもあったようである*3
また「徴発」と言いながら定められた手続きを踏まない略奪、略奪に伴う強姦、民間人の殺害、徴用して用済みになった民間人の殺害なども「命令違反」によって起きた不祥事である。日本軍は食料だけでなく家財道具なども持ち出したが、これは到底「徴発」とはいえない。また、第三国の財産に手を付けるなという命令が出ていたにもかかわらず、第三国人の家屋や大使館で略奪が行なわれたことについても、複数の証言が残されている。また、司令部は南京城内に入場する部隊を制限するつもりだったのに、これが無視されたことも事件に拍車をかけた。
略奪や強姦といった犯罪類型については表向きは「してはならない」という命令があったものの、現実には黙認されていたり、取り締まろうにも取り締まれなかったというのが実態であった。1939年2月の「支那事変より帰還する軍隊及軍人の言論指導取締に関する件」という陸軍次官の通牒に参考資料として添付された、「事変地より帰還の軍隊・軍人の状況」には次のような帰還兵の言辞が収録されている(藤原彰、『天皇の軍隊と日中戦争』、52-3頁、カタカナをひらがなに改めた)。

○○で親子四人を捉え、娘は女郎同様に弄んで居たが、親が余り娘を返せと言うので親は殺し、残る娘は部隊出発迄相変わらず弄んで出発間際に殺して了。
或中隊長は、「余り問題が起こらぬ様に金をやるか、又は用を済ました後は分からぬ様に殺しておく様にしろ」と暗に強姦を教えてきた。
戦争に参加した軍人を一々調べたら、皆殺人・強盗・強姦の犯人許りだろう。
戦地では強姦位はなんとも思わぬ。現行犯を憲兵に発見せられ、発砲して抵抗した奴もある。
約半歳に亙る戦闘中に覚えたのは強姦と強盗位のものだ。

これは日本軍が調査した、日本兵の発言であることに注意していただきたい。「中国の捏造」などではあり得ない証拠である。
以上が「命令違反」として起こった、という側面であるが、事例によっては「命令の不在」「(暗黙の)命令の実行」との境界が曖昧なものもある。

※命令の実行

さて、上述したように、捕虜の扱いについては中支那方面軍に確固とした方針はなく、「場合によっては殺してもかまわない」「俘虜はとるな」という指示があるだけだった。それゆえ、多数の捕虜を抱えた現場の部隊は捕虜を得てからその扱いについて問い合わせることになる。一回の捕虜虐殺としては最大数ともいわれる、山田支隊による幕府山での虐殺(全員を殺したのだとすれば約1万5千人、逃亡者も相当あったとする『南京戦史』の主張でも3千人)の場合、山田支隊長は日記に次のような記述を残している。

捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す/皆殺せとのことなり/各隊食料なく困却す(12月15日、南京戦史資料集2』、331頁)
相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合はせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別 とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり(12月16日、『南京戦史資料集2』、332頁)
捕虜の始末にて隊は精一杯なり、江岸にこれを視察す(12月16日、『南京戦史資料集2』、332頁)

このように、部下を司令部に派遣して指示を仰ぎ、口頭で返答を聞いているわけだ(他にも、電話で指示を仰いできた部隊に対して、長勇参謀が「やっちまえ!」と答えたのを目撃した、といった証言もある)。「命令書」がなければ捕虜の殺害もない、という主張が成立しないことは明白であろう。
また中国軍の敗残兵の様子について、山田支隊のある中隊の将校が興味深い記述を残している*4

 私たちは百二十人で幕府山に向かったが、細い月が出ており、その月明のなかにものすごい大群の黒い影が……。私はすぐ“戦闘になったら全滅だな”と感じた。どうせ死ぬのならと度胸をきめ、私は道路にすわってたばこに火をつけた。(中略)
 ところが近づいてきた彼らに機関銃を発射したとたん、みんなが手をあげて降参してしまったのです。すでに戦意を失っていた彼らだったのです。

このようにして、山田支隊は自分たちよりも数の多い捕虜を得ることになった。国際法云々はおくとしても、殺害することに到底軍事的な意義があるとは思えない敗残兵たちである。
次に民間人の殺害について。南京攻略戦において民間人の殺害それ自体を日本軍が目的としていたわけでは必ずしもないが、それでも次のような事例がみられる。南京攻略戦が始まる少し前のことだが、第3師団歩兵第6連隊第2大隊は次のような攻撃計画を戦闘詳報に残している(藤原彰、『南京の日本軍』、20頁より孫引き、カタカナをひらがなにあらためた)。

一般の良民は総て城内に避難しあるを以て城外に在る一切の者は敵意を有するものと認め之を殲滅す

もちろん「一般の良民は総て城内に避難しある」とする客観的根拠があるわけでもなく、さらに「城外に在る」者が実際に攻撃をしたわけでもないのに「敵意を有する」というだけで「一切の者」を「殲滅」するというのだから、これは「非戦闘員であっても殺してかまわない」という命令と言わざるを得まい。
以上が「命令の実行」として行なわれた側面である。


余談:南京事件否定論者も「敗残兵の掃討」「便衣兵の処刑」があったことは否定しないことが多い。それにしても不思議なのは、弾薬が不足していたから捕虜や民間人の大量殺害などあったはずがない、と主張する人々が、「敗残兵の掃討」「便衣兵の処刑」の軍事的な意義にはなんら疑いを持たないことだ。本当に弾薬が不足していたなら、上述したように明らかに戦意を失っている敗残兵(抵抗らしい抵抗があったのは13日まで)を殺害するのに貴重な弾薬を消費することはあるまい。一国の首都だった街を占領したのだから、捕虜として収容するのに必要なリソースも入手不可能ではなかったはずだ。例によってダブスタである。実際はどうだったのか? 上でも引用した佐々木致一少将の日記には次のような記述もある。


江岸に蝟集しあるいは江上を逃れる敗敵を掃射して無慮1万5千発の弾丸を撃ち尽くした。
「無慮」とあることからも後先考えずに撃ちまくった様子がうかがえるが、すでに攻略戦の勝敗は決しているのだから、そうそうシビアに節約これ努める必要もなかったわけである。

*1:「捕虜を処分」と書いてあっても、それが「殺害とは限らない」と答えるところがまたホロコースト否定論と同じ。

*2:ただし、現場レベルでは「方針」が示されていたようである。第9師団歩兵第6旅団の「掃蕩実施に関する注意」では「青壮年はすべて敗残兵便衣隊とみなし、すべてこれを逮捕監禁すべし」、と! 笠原十九司、『南京難民区の百日』、218頁から孫引き。

*3:佐々木致一少将の日記に見られる記述。「その後俘虜続々投降しきたり数千にたっす、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ片はしより殺戮する。」

*4:笠原十九司、『南京難民区の百日』、189ページから孫引き。