『南京事件』増補版、印象操作(追記あり)
再び公平のためにあらかじめ断っておくが、以下に指摘するような類いの印象操作は誰しもが(私も含めて)無意識のうちにやっている可能性があるものであって、ただ自分がシンパシーを感じている論者によるものについてはなかなか気づきにくいだけかもしれない。例えば笠原氏の『南京事件論争史』にもそういった側面があるというのならどんどん批判はなされるべきだろう*1。
ここで問題にしたいのは「便衣兵摘出作戦」をめぐる論争について言及した314-5頁の記述。ホドロフスキさんが転記の労をとられた『諸君!』2001年2月号のアンケートがひきあいに出されている。秦氏はここで「なぜか、この論点について大虐殺派の論客はそろって回答を避けているが」と書いているのだが、ここでいう「大虐殺派」に該当するとおぼしき藤原彰、江口圭一、井上久士、姫田光義、笠原十九司、高崎隆治、吉田裕の各氏のうち、高崎氏をのぞく全員が選択肢(4)の「その他」を選んでいることを指して「回答を避けている」と評しているわけである。しかし、これがどのような設問に対するどのような回答であるかといえば…。
6 安全区に逃げ込んで潜伏した中国兵は便衣服(平服)に着替えていました。その中国兵士を便衣兵とお考えですか、正規兵とお考えですか。それとも、市民とお考えですか。
(1) 便衣兵である。
(2) 正規兵である。
(3) 市民である。
(4) その他
となっているわけである。否定派バイアスバリバリの設問&選択肢であるわけで、例えば「個別に敗走・逃亡した元正規兵」といった選択肢が別にあれば「その他」を選ばなかったであろうというはなしでしかない。「なぜか」もなにもなく、設問が不当というだけのはなしである。
さらに続けて、秦氏は次のように言う。
(…)他の文献に「摘出者は逃亡兵、敗残兵……ハーグ条約に違反」(藤原彰)、「投降勧告もせず殺害したのは不当」(吉田裕)と主張しているのを見つけた。しかし吉田も彼らが脱出したのち再起してくる可能性に言及し、概して歯切れが悪い。
吉田氏が「再起してくる可能性」に言及している事例は、ネット上ならこれがそれに該当するわけだが、これを「歯切れが悪い」と評するか、それともことがらの複雑さを複雑なままに記述しようとする努力であると評するかで、随分と印象が違ってくるわけだ。戦意も戦力も喪失した敗残兵を一方的に殺戮する…という事例はたしかに古今東西の戦場で度々みられることであり、南京での日本軍の所行のみを「違法」な殺害と断罪しうるか? といえば答えは「ノー」であろうと思う。しかし殺される側の視点で考えた場合、あるいは殺された人々の遺族がその情景を想像した場合に「虐殺」だと考えるのが不当であろうか? そうした問題提起を行なうためにこそ吉田氏はここで「ダンピールの悲劇」に言及しているわけである。もともと「不法殺害」と「虐殺」という概念の間にはズレがあるのだから、このようにあいまいな事例が出てくるのはむしろ当然であり、“歯切れの悪さ”は学問的な誠実さの証しであるということだってできるわけである。
追記:あとから思い至ったのだが、吉田氏が「投降勧告もせず殺害したのは不当」と主張しているのは「便衣兵狩り」で拘束した中国軍将兵の扱いについてではなく、次のような事例である。
(…)もうひとつは敗残兵の位置付けなんですね、これが難しい。 たとえば戦意を失って城内外にうずくまっているような中国兵がいます。 それを日本兵が襲い掛かっていって殺しちゃう。 一番典型的な例は揚子江の上を小船や急造のいかだに掴まって、 中国の市民や軍民が逃げていくわけですね、 それを海軍の11戦隊の砲艦が揚子江を遡って行って、 砲艦の上から機銃や小銃で射殺するということをやったわけです。 これを彼らは戦闘行動だって言うわけですね。 僕は『天皇の軍隊と南京事件』という本の中で、これは正規の戦闘行動ではないと、 少なくとも降伏するように勧告して、 少なくとも捕虜として収容する努力をした後でなければ、 戦闘の帰趨はついている段階ですから、あまりに非人道的で、 戦闘行為とは呼べないって書いたんです。
「便衣兵」(容疑者)として摘出した中国軍将兵についていえば武装解除して身柄を拘束しているのであるから「降伏勧告」など問題にならず、捕虜収容所に収容しておけば「再起」も問題にならないわけで。意図的だとするとあまりに稚拙な論点の混同なので、うろ覚えでテキトーに書きでもしたのだろうか。