本筋からはずれた部分への反応なので申し訳ないですが…

やはり「論争」にコミットしている人間としては気になる点なので。「数学屋のメガネ」さんの「宮台氏の「左翼の嘘」という発言の意味」というエントリにて。

このような論理の使い方に関わる「嘘」の構造は、対立する議論にはいくつか見つかるのではないかと思う。例えば南京大虐殺を巡る議論では、虐殺された人々の数の多さが主張されることが多いが、本質的にはそこで死んだ人々の「全て」が虐殺されたのだという感情的な面に訴える言説が対立を生んでいるようにも感じる。そこで死んだ人々は、「全て」が虐殺されたのではなく、戦闘行為で死んだ人も「存在した」のではないかという問題だ。
「全て」が虐殺されたという主張なら、その悲惨さは感情的に最高のものになり、訴えるインパクトも最高のものになる。しかし、この「全て」の主張は、論理的な破綻を招く恐れのある「全て」になる。実際には、その殺害の内容を細かく研究して、虐殺と呼べるような不当なものがどれくらいあったかを、客観的に考えようとしている人もいると思う。だが、分かりやすい言説としては、やはり「全て」が虐殺だったのだという主張が流通しやすいかも知れない。
この「全て」に疑問を持った人間が、「全てではなかった」という結論を得ると、これが「全てはそうじゃなかった」という極論に振れたくなるのが感情かも知れない。「全て」に疑問を感じる人間は、ある特定の対象に対しては、その言説が間違っていると感じている人だろうと思う。その人が証拠を手に入れたら、疑問の大きさに応じて、逆の極論に振れる度合いが大きくなるだろう。

う〜ん…。「第三者から見たらそういう印象を受けるんだ」と言われたら反論のしようがありませんが、「戦闘行為で死んだ人」の存在を否定したり隠蔽したりしている論者って、いますか? 否定論者の側からも、「お前らは通常の戦闘で戦死した中国軍将兵がいることを否定している」とか言われたことないですし。そりゃあ「日本の侵略戦争だったことを考えれば、通常の戦闘による戦死者も犠牲者であることに変わりない」とか、「中国側主張と日本の研究者の主張の差は、戦死者が虐殺の犠牲者としてカウントされていることに由来するのかもしれない」といった語り方はされることがあるけど、前者は南京事件というより日中戦争全体の評価に関する問題だし、後者は日本での議論が「通常の戦闘での戦死者/不当な虐殺の犠牲者」という区別を前提していることを意味しているわけで。南京事件をめぐる論争史を見ても「それまで全員が虐殺の犠牲者だとされていたのに、通常の戦闘の戦死者もいることが明らかにされた」なんてことはないわけですよ。だって、戦争してたんですから通常の戦闘の戦死者が出ることは火を見るより明らかですし。最近のトレンドは「南京事件は国民党のプロパガンダだった」というやつですしね。
まああえて言うなら、「便衣兵」論法がそれに近いですかね。「捕虜と一般市民だけが殺されたと思っていたのに、便衣兵がいっぱい混じってたなんて!」と。しかし「便衣兵の掃討」というかたちでの殺害の類型はそれこそ戦犯裁判の頃から明らかにされてたわけで、「虐殺=あった」派が「全部捕虜と一般市民だった」と宣伝したわけじゃなく、要するに南京事件について具体的なことを知らない人が多いから、「便衣兵がいっぱい混じってたなんて!」と思っちゃう、ってことでしょう。(ほんとは便衣兵じゃなくて敗残兵と呼ぶべき状態だった、という点はこのエントリの主題と関係ないので省略。)