なぜ「断罪」してはいけないのか?

他方、「ん、断罪せよと言いたいわけではないです」については私ははっきりと違う考えをもっている。

トラックバックから。

例えば帝国主義批判なんかをする際、後藤新平とか寺内正毅を標的にして"断罪"したり"非難"したりすることは歴史学上では全く意味をなさないと思う。
(中略)
歴史家の仕事というのは、現代と過去との"価値観"を相対化した上で、歴史的事実から得られた教訓を普遍的知識にまで高めることではないか。
Re: Person I don’t know

なるほどごもっとも。「教訓を普遍的知識に」していくためには、いずれにせよ批判的に検討することは必要だけれども、そこが安易な「断罪」や「非難」であってはしょうがない、ということでしょうか。
そういう意味で「断罪するな」というのは納得です。こないだのエントリでは「批判をかわすために『断罪するな』という人」が、まず念頭にありました。自分がもってなかった視点に気づかされましたね。うむ。

価値相対主義を拠りどころに「われわれの先人を断罪するな」、とする主張に私が共感を持てないのは、ほとんどの場合「われわれの先人を免罪せよ」という欲望がはっきりと透けて見えるからだ*1。価値相対主義に依拠するなら、断罪することも免罪することもできなくなるはず。さらに、「いまの価値観で断罪するな」というのも現在の価値観に立脚する主張なのだから、価値相対主義の下では「まあそうも言えますね」ということでしかないはず。なぜ、価値相対主義を標榜していながら、そんなに自信たっぷりに「断罪するな!」と断言できる*2のだろうか?
他方、われわれの社会は常に誰かを断罪している。端的にいえば刑事事件のことである。殺人犯を断罪し、強姦魔を断罪し、汚職官僚を断罪しているのである。ライブドア村上ファンドのように、60年どころかわずか数ヶ月のあいだに変わった「世論」に基づき断罪されている事件すらある。これに対して、帝国主義の責任やその結果としての戦争責任というのは、上述したように数千万人(日本が関わった戦場だけに絞っても、控えめな推計で2000万人に近い)が死亡し、何十万(あるいはそれ以上?)という女性が強姦され、莫大な私有財産が灰燼と帰した出来事に関する責任なのである。もちろん、(ドイツにおけるナチス戦犯追及のような特殊なケースをのぞいて)形式的には時効が成立しているものばかりだ。だから私にしても、必ずしもいま改めて刑事罰を加えよとまで主張しているわけではない。しかし、別に鎌倉時代の「罪」を明らかにしようというはなしではないのだ。数は少なくなったとはいえ、いまだに当時を知る人々が(そして被害者が)生存している出来事の責任を明らかにしようというはなしなのである。「別に誰が悪いとかいうはなしではないんですよ〜」という姿勢で歴史から「教訓」が得られるものなのだろうか? もちろん、有限な人間のやることであるから、「断罪」が間違うこともある。しかし、だから歴史上の人物を裁くなと主張する人は、刑事裁判の全廃を主張するだろうか? 「間違う」リスクを冒しながらも敢えて「断罪」にコミットすることこそが必要ではないのだろうか?


追記:ひょっとすると、この問題に関するすれ違いの一部は、「断罪」という言葉の響きにあるのかもしれない。私は別に過去の個人を罵れとか鬼畜呼ばわりしろ、なんてことは主張していない。また、個別の戦争犯罪はともかく、戦争犯罪が生じる背景だとか植民地支配の責任という問題については、あまりにも多面性をもつがゆえに特定個人を断罪するだけで足りるとも思っていない。しかし歴史上のある時点である決断・選択を行なった個人について、その決断・選択の責任を「間違っていた」*3と評しうるのなら「間違っていた」と言えばいいじゃないか、ということである。

*1:追記:「こないだのエントリでは「批判をかわすために『断罪するな』という人」が、まず念頭にありました」とおっしゃっているので、「はっきりと違う考え」というのはちと言いすぎでした。

*2:追記:これはgood2ndさんのことではなく、「断罪するな」派の主流のことです。

*3:「間違い」にも様々なタイプがあり得るが。