昨日のエントリに補足

旧日本軍(大日本帝国)の否定的な側面、という場合に「悪かった」ということと「駄目だった」ということを分けることができる(宮台真司による)。二つの側面は互いに無関係ではなく、例えば南京事件は国際社会に報道され、アメリカの対日世論を悪化させたのだから、「悪かった」と同時に「駄目だった」のでもある。とはいえ、「何に対する誰の責任」という観点から、両者が概念的に区別できることは確かである。
議論が紛糾しがちな「悪かった」という側面をとりあえずスルーしたにしても、戦史を読めば読むほど旧日本軍の「駄目だった」事例がボロボロでてくる。60数年前にタイムスリップして、旧日本軍の一兵卒としてあなたは戦ってみたいと思いますか? わたしゃお断りですよ。
旧日本軍、大日本帝国の「否定的」な側面を強調する論者にもいろんな問題意識があるわけだが、なにか共通するものがあるとすればそれは「人の命を粗末にするな」であろう。とにかく、旧日本軍は人命軽視が体質であり構造的特性になってしまっていたわけで、ネガティヴな評価が基調になるのは避け難いのである。
もちろん、保守のモラルも「人の命を粗末にするな」と要求はする。しかしながら、文言としては同じ「人の命を粗末にするな」が、まったく異なる道徳的判断を導く(特にアメリカにおいて、死刑存置賛成と中絶反対が親和的であり、死刑存置反対と中絶合法化支持が親和的であることを考えればよくわかるように)のである。そのあたりの理論的分析はN・Bさんのこのエントリと、そこでご紹介いただいている私の記事をご覧下さい。簡単にいえば、右派も左派も道徳的判断を左右するファクターとしては同じような品揃えなのだが、その優先順位が違う、ということ。例えば、ハードコアな非暴力主義者でない限り、旧日本軍に批判的な人間だって「人命を賭してもなにかを行なわなければならないことがある」ことは否定しない。しかし人命を賭する以上、その目的の妥当性は厳しく吟味されねばならないし、その方法の目的合理性も厳しく吟味されねばならない、ということである。