従軍慰安夫

吉田裕の『現代歴史学と戦争責任』(青木書店)を読んでいたら、田中利幸の「なぜ米軍は従軍慰安婦問題を無視したのか」(上・下、『世界』、1996年10月、11月号)が紹介されていた。

また、田中は別の論考のなかで、第二次世界大戦中の米軍の「管理売春」制について論及し、「日本軍の『従軍慰安婦制度』は、軍が意識的、計画的に犯した組織犯罪であるという点で、米軍の『管理売春』とは明確に異なっていた」としながらも、米軍の「管理売春」制の背後に、「生命をかけて闘っている兵士には女性の慰安を享受する道徳的権利がある」という普遍的な軍イデオロギーの存在を見出している(…)。

特に保守派のなかには、「生命をかけて闘っている兵士には女性の慰安を享受する道徳的権利がある」という主張に(あからさまにではないにしても、ひそかに)同意する人々は少なくないだろう。南京事件や、より一般には戦場での強姦に関しては比較的まっとうな態度をとる論者が従軍慰安婦問題になると妙なことを言い出す(念頭においているのは例の人ですが)のも、こうした戦場道徳が背景にあるものと思われる。もちろん、引用箇所が主張するようにこれは日本に固有の問題ではない。「従軍看護婦にちょっかいを出すG.I.」なんてのはアメリカの戦争コメディ映画につきものといっていい光景である。性的快楽の享受が、すべての当事者の自発的な意思に基づくものである限りで戦場でも許容されるというはなしなら、一見したところ「兵士の人権に配慮したポリシー」であるように思われる。


しかしながら、「命をかけて闘って」いるのは異性愛の男性兵士だけではない。同性愛者は戦場でも「クローゼットに隠れる」ことを強いられてきた。今日では女性が戦闘員として戦場に出ることが*1ありうるだけでなく、これまでも従軍看護婦のようなかたちで戦場に赴く女性はたくさんいたし、近代戦では「銃後を守る女性」だって実質的に「命をかけて闘って」いると言い得るわけである。
さてそうすると、「命をかけて闘って」いる同性愛者や女性にも性的な「慰安を享受する道徳的権利がある」、と言われるのだろうか。言い換えれば、従軍慰安婦を正当化しようとする人々は従軍慰安夫もまた許容するのだろうか? 保守的リベラリズムの観点から「許容する」と主張するひともたしかにいるだろうが、「軍イデオロギー」はそうした権利を異性愛の男性にしか認めてこなかった、というのが実情であろう。特に、銃後で闘う妻(恋人)が性的慰安を享受する可能性は、軍の士気を崩壊させるものとして厳しく抑圧されてきた。ダブルスタンダード*2の典型のようなはなしである。性的慰安は異性愛の男性兵士にしか許されないというのなら、いかなるかたちをとろうが「戦場の性」は差別的なものでしかありえないだろう。

*1:国によって事情は大きく異なるとはいえ。

*2:異性愛中心という意味と、男性中心という意味で二重のダブルスタンダードである。なお、ここでの議論はセクシュアリティ性的志向をかなり単純化したうえでのものである、ということをお断りしておく。