大江志乃夫、『日本の参謀本部』、中公新書


この本は昨年買って読みはじめたところで、電車のなかに置き忘れてなくしてしまった…という経緯があり、なにしろ700番台の新書なのでなかなか店頭で見つけられず、普段の習慣に反して通販で買ってようやく読み終えた。
いまさら紹介するまでもない名著なので、ここでは先日このエントリのコメント欄で議論になった問題、すなわち“日本軍が日露戦争第一次世界大戦の戦訓をきちんと学べなかったのはなぜか?”という問題に関わる点と、その他印象に残った点についてつまみ食い的に。


1909年に日本陸軍が歩兵操典を改訂し、銃剣突撃の重要性が強調されたことに関して、戸部良一は「日本軍が白兵戦で優位に立ったため、その長所を強調した」という解釈を俗説として斥け、火力の面で決してロシア軍にひけはとっていなかったこと、むしろ白兵戦で苦戦したのだと指摘している。大江志乃夫もまた、日露戦争時の日本軍は「編成、装備、戦法がロシア軍にまさっていた」とし、「精神力」についていえば「むしろロシア軍の方が戦場では勇敢であった」、「日露戦争の日本軍より第一次大戦西部戦線の各国軍の方がはるかに強靭な精神力を発揮している」(原文のルビを省略)、としている(136頁)。日露戦争では、ロシア軍こそが「銃剣突撃の無敵の威力を信じつづけて火力戦を軽視した」のだという。
こうしてみると、歩兵操典の改訂は主観的には「弱点の克服」を目指したものだった、と言えなくもない。ただ、戦争の形態の変化を見落としていた、と。戦術的にも「敵野戦軍殲滅思想」に執着し、縦深陣地を攻略する装備、戦術を持てなかったと指摘されている。また、当時のエリート軍事官僚の多くが歩兵科出身だったことも、他の兵科を軽視する原因となったという(146頁)。
もう1点、歩兵操典や作戦要務例などの典令範が「天皇統帥権の直接の発動である軍令」という形式で制定されたため、これらについての批判的研究が不可能になってしまったことも指摘されている。そのため、「日本陸軍日露戦争という世界史的に画期的な戦争を経験しながら、そこからあたらしい軍事理論を生み出すことができなかった」、と(128頁)。


ドイツの参謀本部が「戦時に編成される兵站部」に起源をもっていたのに対して、日本の参謀本部は「情報政治家」であった山県有朋の個性が強く反映していた、「戦術中心の思想」のうえに成立した(55頁、111頁)、という点が後に大きな意味を持つようになる。兵站の軽視に代表される戦略不在、謀略好きの体質の種は出発点からまかれていたわけだ。