戦場のミソジニー

田中利幸氏の著作『知られざる戦争犯罪 日本軍はオーストラリア人に何をしたか』(大月書店)の第3章は旧日本軍がオーストラリア軍の従軍看護婦を殺害した事件を扱っているのだが、当ブログでこの本をとりあげた際、そうした虐殺の心理的背景についての田中氏の分析を次のように要約しておいた。

第3章のテーマは「女性にとって戦争がもっている「普遍的な本質」とは何かを探る」ことである、とされる。事例としてまずとりあげられるのはインドネシア・バンカ島での豪従軍看護婦虐殺や、慰安婦強要(未遂)事件、および他地域での慰安所であるが、ドイツ軍や連合国軍による性暴力の事例も多く紹介され、「男性支配文化」そのものを問題にする視点が強調されている。上官には支配される立場でありながら敵に対しては支配力を発揮しなければならない、という矛盾した立場に置かれた下級兵士にとって、強姦は敵への支配力を自己確認するうってつけの手段であり、輪姦は仲間に対して自らの支配力を誇示する手段であるがゆえに、戦争において強姦は(どれほど慰安所を設置しようと)避けることができない。と同時に、戦場に現われる女性は「男の組織」に濫入した「いてはならないはずの存在」であるというイデオロギーと、女性が(従軍看護婦として、また戦場となった土地の住民として)兵士の目の前に現われてくることは避けられないという現実との矛盾。この矛盾を解決するために女性を抹殺するという行動が発生するのではないか、と著者は分析している。
(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20061107/p2)

以前に購入報告をした元米海兵隊員の従軍記、『ペリリュー・沖縄戦記』(ユージン・B・スレッジ、講談社学術文庫)にこの分析の例証となりそうな記述を見つけたので、まだ読了前なのだが簡単に紹介することにしたい。
ペリリューでの激戦を終え、休息のために著者らがパヴヴ島(第1海兵師団の師団本部があった島)に到着した時のこと。著者らは「アメリ赤十字若い女性」が「グレープフルーツジュースの入った小さな紙コップを運んでいる」のを目撃する。「仲間のなかには、むすっとして赤十字の女を見やり、自分のヘルメットに腰を下ろして、命令を待っている者もいた」が、著者はジュースを受けとりにいき、礼を言う。しかし……。

キツネにつままれたような気分だった。ペリリューで残虐な戦闘に明け暮れた直後とあって頭も心も麻痺していたから、パヴヴ島にアメリカ娘のいることがどうにもしっくりこない。混乱した頭でただ「こんなところでいったいなにをしているんだ。くだらない政治家にも用はないけど、こんな女にも用はないはずだ」と考えていた。トラックに向かいながらも、女がひどく腹立たしかった。

以上、引用はすべて257ページより。ジュースを受けとりにいった著者でさえ強い違和感を感じたのであるから、「むすっとして」ジュースを飲もうとしなかった兵隊たちもまた同様な腹立ちを感じていたのではないかと推察できよう。


主に電車での移動中にちょっとずつ読んでいるのでようやく沖縄戦の部分にさしかかったところ。著者のスレッジ氏は海兵隊の一兵卒(迫撃砲兵)として両戦闘に参加したが、医師の息子で、戦後は鳥類学者として大学の教壇に立ったインテリで、解説文を寄せている保阪正康氏が「体験を内省化する能力と知識」、「仲間たちの非人間的な行為を理性の枠にとどまって必死に自省」しようとする姿勢を称賛しているように、日本軍側のみならず米軍側の残虐行為も避けることなく記述している。特に興味深かったのは、米兵たちの「土産物」あさりに当初違和感を感じていた著者が徐々に残虐行為に“慣れて”しまい、悪名高い金歯集めに手を染めようとした時、一人の衛生兵が著者を止めたというエピソード(195-197ページ)。最初は「故郷のご両親」がなんと思うかを想像させようとし、それでも効果がないと死体の「黴菌」をひきあいに出して止めさせることに成功する。

 戦後になってこのときのことを思い返してみて、ドク・キャスウェルがほんとうに言いたかったのは黴菌のことではなかった、と気がついた。ドクはいい友人で、誠実な人格者だった。ドクの感受性はまだ、戦争に押し潰されてはいなかった。だから、私の感受性が失われ、冷酷非情になっていくのを見過ごしにできなかったのだ。

戦場にあっては感受性の摩滅が常態となり残虐行為は当然のことのように思えるかもしれないが、生き残った兵士はやがて戦後の、平和な日常に戻ることになる。もしこのときドク(衛生兵のニックネーム)が止めていなかったら、著者が戦後に抱えた心の傷が一つ増えていただろう(ドクの真意に気づくことができた著者は、おそらく自力でも自分の行為を批判的に自省する能力をもっていただろうから)。
また一方の側の残虐行為が他方のそれを激化させる心理についても描かれており、戦場における残虐行為の防止は利己的な動機だけを考えても十分な必要性があることを示していると言えよう。