刑事事件の証拠評価と歴史学の証拠評価

ネット上の南京事件否定論に共通する一つの特徴は、南京事件に関してきわめて厳しい証拠評価基準を掲げることである。同じ基準をあらゆる歴史的出来事に適用するなら、ほとんどの歴史的出来事について「あったかなかったか不明」と言ってしまえそうなほどである。歴史学に、刑事裁判と同じ基準を持ち込もうとした人物などがその典型であろう。


しかしながら、刑事裁判と歴史学とは目的も違えば効果も異なるのであって、同じ基準を適用するのはまったく合理的ではない。まず、刑事裁判は比較的限られた時間内で正しい(この正しさの意味については後述)結論を出すことを要求される。「後世の法律家にゆだねる」わけにいかないのが刑事裁判というものであって、これが歴史学とは異なるところ。
次に、刑事裁判はもし有罪判決が下れば被告人の人権が大いに制限される(場合によっては命を奪う)という効果をもたらすがゆえに、「本当は罪を犯している人間を無罪にしてしまう」リスクよりも「本当は無実の人間を有罪にしてしまう」リスクの方を優先的に回避するしくみがビルトインされている*1。伝聞証拠排除の原則もそうしたしくみの一つである。刑事裁判においては「本当は無実の人間を有罪にしてしまう」リスクを排除して下される結論こそが「正しい」結論なのである。他方、歴史学の場合はどうだろうか? ある出来事が「ほんとうはなかったのに誤って、あったと結論してしまう」リスクと、「本当はあったのに誤って、なかったと結論してしまう」リスクのうち、前者を優先的に回避すべき理由があるだろうか? ある出来事の歴史的な評価が国家間の権利義務関係に関係してくる場合、例えば、中国政府が南京事件に関して賠償を請求している、といった場合なら、前者を優先的に回避すべきだと言えるかもしれない。しかしそうでないなら、どちらのケースも歴史学にとっては同じように間違った結論なのであって、特に前者を回避すべき理由はない。歴史学では(そして他の学問分野でも)優先されるのは通説であって、「あったという主張」「なかったという主張」のどちらでもない。「あったという主張」の側により高いハードルが課されるのは「なかったという主張」が定説である場合のことなのである。


歴史的な出来事に関して「間違ってあったと結論してしまう」ことのデメリット、「間違ってなかったと結論してしまう」ことのデメリット、そして「判断停止してしまう」ことのデメリットのうち、「間違ってあったと結論してしまう」ことのデメリットが一番重大であると考えるべき理由は、一般的にはない。「絶対に間違いがないといえる証拠がないから、判断停止する」は、必ずしも知的誠実さを意味しない。あらゆる出来事に関して同じ基準を適用するならともかく、特定の出来事にだけそういう態度をとるならなおさらである。このエントリpippoさんから頂戴した次のコメントも、同じような文脈で理解することができる。

しかし「ラーベの日記」そのものは第一級資料ですからね。誤訳があるからといって敬遠するのは意味無いんですよ、きっと。誤訳訂正も含めて全体を読み直すべきなんです、ということでやってます。童話翻訳家のよさも無いわけでは有りませんし(^^;; ヒヤアセ

誤訳があるのならいずれ誰かによって指摘され、誤りを正すことはできる。それが集団知というものである。「誤訳があるかもしれない」という理由である翻訳資料の利用を回避することのメリットが、誤訳のリスクを承知のうえで翻訳資料を利用するメリットを上回ると考える、ア・プリオリな理由はない。「中国語がわからなければ…」が結局は歴史的出来事へのコミットメントを回避する方便でしかないというのは、以上のことからも明らかであろう。

*1:もちろん、それが常にうまく機能するとは限らないから冤罪は発生するわけであるが。