視点・論点「まん延するニセ歴史学」

まかされてしまった以上、やるしかありますまい(w
元ネタはこちら。できれば省略なしのフルバージョンでやりたかったが、一部飛ばしてます。ネタを思いついたら追記するかも。

みなさんは、「ニセ歴史学」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。
これは、見かけは歴史学のようだけれども、実は、歴史学的とはとても言えないもののことで、「偽史」や「歴史修正主義」などとも呼ばれます。


『そんなものが東京裁判史観以外にどこにあるんだ』とお思いの方も、例として、ジンギスカン義経説や、日猶同祖説や、ホロコースト否定論などの名前を挙げれば、『ああ、そういうもののことか』と納得されるかもしれません。それとも、かえって、『え?』と驚かれるでしょうか。


例えば、皆さんもよくご存知のように、『盧溝橋事件は中国共産党の陰謀』と盛んに言われ、ひところは大手出版社もこぞって書籍を売り出すほどのブームになりました。盧溝橋事件陰謀説がよく売れたのは、もちろん、中国共産党の陰謀だという説に歴史学的な裏づけがあると信じた人が多かったからでしょう。チャンネル桜文藝春秋社が発行している雑誌などでも頻繁に取り上げられましたから、それを疑えという方が無理な話かもしれません。
しかし、実は、盧溝橋事件が中国共産党の陰謀という歴史学的な根拠は、ほぼない、といってよいのです。あのブームは、まったくの空騒ぎでした。大学教授までが、なぜ、その空騒ぎに乗ってしまったのか。きちんと検証しておく必要があります。
いまは、張作霖爆殺がスターリンの陰謀だったという説に、人気が出てきているようです。しかし、実のところ、スターリンのせいにしたところで、満州事変を正当化することは期待できません。


いま、このような、歴史学のようで歴史学ではない、「ニセ歴史学」が蔓延しています。
こういった「ニセ歴史学」のなかに、旧日本軍の戦争犯罪に関わるものがあります。その話をしたいと思います。


よく知られている例の一つは、『南京事件は中国のプロパガンダで捏造されたマボロシ』といういわゆる「南京事件否定」論です。しかし、この論に、歴史学的に信頼しうる根拠はないのです。その意味で、これもまた「ニセ歴史学」です。
もちろん、どんな戦争にもそれなりのプロパガンダがありますから、事件についての認識に影響することはあるでしょう。しかし、それだけなら、東京大空襲やシベリア抑留などでも同じです。南京において大規模な虐殺、強姦などが起こったかどうかとは、まったく別の話なのです。
ところが、この説は、産經新聞購読者に広く受け入れられています。ネット上で、「新しい歴史教科書をつくる会」や日本会議に影響された投稿がなされているようです。
もちろん、日本軍の旧悪が暴かれてばかりで困っているという関係者は多いでしょうし、ネット上のウヨクもそういう風潮を何とかしたいと思っているのでしょう。
そういうみなさんにとって、「南京事件は中国のプロパガンダで捏造されたマボロシ」説が一見、福音に思えたことは分かりますが、歴史学的根拠のないものに飛びついても、仕方がありません。
そもそも、プロパガンダを何とかしたいというのは、歴史学の問題ではなく、政治の問題だったはずです。中国が四六時中犠牲者は30万人と主張して困ると考えるなら、日本の国会議員が南京事件を否定するのもやめるようにきちんと指導するべきでしょう。自己愛の根拠を歴史学に求めようとしてはいけません。


さて、「ニセ歴史学」が受け入れられるのは、歴史学に見えるからです。つまり、ニセ歴史学を信じる人たちは、歴史学が嫌いなのでも、歴史学に不審を抱いているのでもない、むしろ、歴史学を信頼しているからこそ、信じるわけです。
たとえば、南京事件否定説がブームになったのは、『中国は悪く、日本軍の軍紀は良い』という説明を多くの人が「歴史学的知識」として受け入れたからです。
しかし、仮に、歴史学者に、『日本軍は鬼畜の集団だったのですか』とたずねてみても、そのような単純な二分法では答えてくれないはずです。
『日本軍といってもいろいろあるので、中には軍紀のいい部隊も悪い部隊もあるでしょうし、軍紀がいいといっても現地で食糧を取りすぎれば相手には悪いことだと思われるでしょうし、ぶつぶつ……』と、まあ、歯切れの悪い答えしか返ってこないでしょう。
それが歴史学的な誠実さだからしょうがないのです。


ところが「ニセ歴史学」は断言してくれます。
『旧日本軍の軍紀は良いといったら良いし、中国共産党は悪いといったら悪いのです。
また、南京事件がなぜなかったのかといえば、あったことを認めると自己愛が壊れるからです。
皇軍の戦争は、アジアの植民地を解放したから、良い戦争なのです。』
このように、「ニセ歴史学」は実に小気味よく、物事に白黒を付けてくれます。この思い切りの良さは、本当の歴史学には決して期待できないものです。
しかし、パブリックイメージとしての歴史学は、むしろ、こちらなのかもしれません。『歴史学とは、様々な問題に対して、曖昧さなく白黒はっきりつけるもの』歴史学にはそういうイメージが浸透しているのではないでしょうか。
そうだとすると、「ニセ歴史学」は歴史学よりも歴史学らしく見えているのかもしれません。


たしかに、なんでもかんでも単純な二分法で割り切れるなら簡単でしょう。しかし、残念ながら、世界はそれほど単純にはできていません。その単純ではない部分をきちんと考えていくことこそが、重要だったはずです。そして、それを考えるのが、本来の「合理的思考」であり「歴史学的思考」なのです。二分法は、思考停止に他なりません。


「ニセ歴史学」に限らず、良いのか悪いのかといった二分法的思考で、結論だけを求める風潮が、社会に蔓延しつつあるように思います。そうではなく、私たちは、『合理的な思考のプロセス』、それを大事にするべきなのです。


疑似科学偽史(ないし歴史修正主義)との類似性は表面的なものではなく、かなり本質的なものだと思ってるので、洒落にならんはなしではあります。あえてネタにするという不謹慎な挙に出たのは、ネット否定論者の資料に対する態度などが実際のところ疑似科学の証拠に対する態度とよく似ているからです。と、弁解をしておきます。


25日追記 D_Amonさんから関連エントリのご紹介がありました。
http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20061019/p2
http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20061025/p1