北博昭、『軍律法廷 戦時下の知られざる「裁判」』、朝日選書

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(以上、id:bat99さん)

(以上、当ブログ)

内容についてはbat99さんが紹介しておられるので、そちらをご参照願いたい。副題に「知られざる…」とあるように、日本が米軍将兵を「戦犯」として処刑していたという事実は、東京裁判BC級戦犯裁判に比べて遥かに知られていないように思われる。本書の帯には「この存在を知らずに戦争は語れない」とあるが、その当否はともかく「この存在を知らずに東京裁判BC級戦犯裁判は語れない」とは確実に言えよう。東京裁判を否定する者にとってであれ、その歴史的な意義を積極的に評価しようとする者にとってであれ、本書は(そして『法廷の星条旗』は)考えるべき問題を提起している。『法廷の星条旗』とあわせ読むことをお勧めしたい。


23日の拙エントリへのコメント欄でbat99さんが「著者の北博昭氏の見解には同意できない部分もある」とおっしゃっているが、私からも一点指摘しておきたい。「イトウ・ケース」において大きな争点となった、軍律法廷における審理手続きの正当性(弁護人をつけなかったこと、など)をめぐる、30頁の記述。

 アメリカは、戦後、戦犯裁判において自国のとる英米法系の訴訟手続きをもって臨んだ。この手続きでは、検察官と被告人がそれぞれの主張と立証をぶつけあうなかで審理はすすめられる。二当事者対立主義である。だから、被告人を支える弁護人がいなければおよそ審理はすすまない。日本の軍律法廷のような、弁護人なしの審理はまず考えられない。

(当時の)日本は大陸法の流れを汲む法体系だったから弁護人をつけなかったことも容認される、と言わんばかりの説明だが、これはおかしいのではないだろうか。テッド・バンディは弁護人を罷免して自分で自分の弁護を行なった。イトウ・ケースの被告は法律家であり、軍律法廷で裁かれた米軍将兵より遥かに巧みに自分を(弁護士抜きでも)弁護できたはずである。弁護士の有無は被告の弁護権を実質的に保証する意味をもつけれども、弁護士がいなければ形式的にも「審理はすすまない」ということはないはずである。他方軍律法廷の場合、なるほど、裁判官(に相当する軍法務官)が検察側の主張を鵜呑みにせず「真実の究明」に積極的にコミットしたとすれば、「弁護士抜き」の弊害も実質的に緩和されよう。しかしそのような公平さが制度的に保証されていたとは到底思えない。