まん延する「悪魔の証明」脳?

悪魔の証明」論法(「○○がない、という主張は証明不可能であり、それゆえ○○があると主張する側が論証の責任を負うべきである」とする論法)が安易に使われていること、実際には「○○がない」という主張をちゃんと論証できるケースが多々あること、についてはこれまでも何度か述べてきた。「百人斬り訴訟」に関する2chの某スレをみていると「ないことの証明を要求する裁判所」を非難するカキコがあったりして、この裁判の争点も民事訴訟のルールもろくに知らないまま「○○がなかった」という形式を表面上もつ命題さえ争点になっていればなんでも「悪魔の証明」云々で片付けられると思っているのか? と情けなくなってくる。しかもこの論法の適用が極めて恣意的。つまり「○○がない」という主張が自分に有利なときにのみ、論証責任を一方的に相手に負わせる便法として使われているようだ。例えば「南京大虐殺の証拠なんてない」と信じているらしい人物は、いったいなぜそうも簡単に「証拠はない」という主張を信じられるのだろうか? 「証拠はない」という主張がどのように「証明」されたのかについて、疑問には思わないのだろうか?