相殺の論理と普遍性の論理

ゆーきさんからコメント欄でご指摘があったので「RAA 慰安婦 GHQ」で検索するとなるほどみつかるのが、従軍慰安婦制度に対するアメリカからの批判に対して占領下日本に存在したRAAをひきあいに出す論法。

前者は「米兵による婦女暴行事件の続発に驚愕したGHQは、既に日本政府から申し入れのあった、米兵のための「慰安所」を急ぎ用意させる」とまだしも慎重な書き方になっているのに対して、後者は「GHQは、ついに東京都に慰安所の設置を要求した。これはうわさや誇張ではなくれっきとした事実である」と断言している。「軍による(狭義の)強制連行があったことを示す証拠はなかった」ことを拠り所にしている人物がこう断言するのだから、きっとGHQの「命令書」があるんでしょうな。
(コメント欄でのmescalitoさんのご指摘を追記。

RAAについて特に調べずとも、上記依存症の記事には矛盾がある。
「強姦が発生したのでGHQ慰安所要請した」という主張であるにも関わらず、
GHQの意を受けた政府は、1945年8月26日、特殊慰安施設協会(RAA=Recreation and Amusement Assoiation)を設立。
と述べている。
おかしい。45年8月27日の朝日新聞によると連合国軍第一次先遣部隊が暴風雨のため上陸を延期したとあるので、米兵による強姦事件が発生するのは8月27日以降でなければならないはずです。
(…)

占領軍第一陣が上陸したのは28日のようです。)


いずれにしても、こうした論法においてRAAがひきあいに出されるのは慰安所を問題にしないためであって、RAAを問題にするためとは思えない。

と対比すればそのことは明らかとなろう。

こうしたことが日米の外交の場で問われてこなかったという事実もまた、日本という国の戦後と現在のあり方に関わっているのであり、国家が引き起こした戦争によって死んでいった多くの人たちの命について、明確な責任が誰によってもとられることのないままに過ぎた時間や空間の空虚さは、現在もわれわれの生を規定しているこの「あり方」、枠組みに根ざしたものだと考えるべきだろう。
第二次大戦における国内外の人たちへの日本国の責任を問うという行動は、最終的には、日本が戦後そこに組み込まれることになり、形を変えて現在も続いている世界秩序の正当性、妥当性というものを問うことに関わってこざるをえないのだと思う。

右派が好んでひきあいに出す、中国のチベット占領についても同じことが言える。
ところで、「肝心な部分から目をそらせるようにして、末節の「内情」や「意図」だけをあげつらうのは、自分たちのやましさと政治的無能さを告白しているようなものだ」と指摘しているエントリに対して、この指摘をあからさまに無視するようなコメントがついているというのはなんだかなぁ。


原爆投下や東京大空襲東京裁判批判の文脈で持ち出されることはあっても、それがアメリカの責任を問う具体的な運動になることはない。昨年開かれた「原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島」のような運動に対してはこういう反応が一つの典型としてあるくらいだから。南京大虐殺に関して敗残兵の掃討を正当化する議論に対して、吉田裕は次のように反論している。

僕の主張は問題はそう簡単ではないと、 前の『現代歴史学と戦争責任』のなかでも書きました。 というのは、これもまた日本側に跳ね返ってくるんですけどね、 ダンピールの悲劇というのがあります。 アメリカ側ではビスマルク海海戦っていってますけど、1943年2月ですね、 ニューギニア戦線が危うくなって、そこで増援計画で、 8隻の輸送船に乗って増援部隊が送り込まれます。 それに対してアメリカの空軍とオーストラリアの空軍が反復攻撃を加えて、 8隻の輸送船が全部沈没しちゃう。 これは天皇もショックを受けるほどの大敗北だったんですけど、 このころは日本軍の兵隊も悲惨で救命胴衣が皆にはないんですね。 竹を切って繋いだのをライフジャケットにしているようなありさまで、 かなり日本兵も悲惨なんですけど、 沈没した輸送船から逃れた日本兵が数十人単位で固まって海峡を漂流するわけです。 それをアメリカやオーストラリアの空軍機が反復銃撃を加えて、 機銃掃射で殺してしまう。 それからアメリカの魚雷艇が探索に当たって、漂流する日本兵を見つけて殺す。 ジョン・ダワーというアメリカの歴史家は『人種偏見』という本の中で この事件のことを取り上げていますが、 アメリカはちょっと日本と違うなあと思うのは、こういう事件が新聞に報道されて、 ちゃんと議論されてるんですね。 非人道的だっていう人は少数派なんですけど、 非人道的だっていう人の声も紹介されるんですね。 そこがちょっと日本と違うところですけれど。 ともあれ、アメリカでもこれは正当だっていう人の方がかなり多い。 しかし、ダワー氏はその事件を取り上げて、 こういう行為の背後には人種的偏見があるという形で、 アメリカの戦争犯罪としてこの事件を取り上げているんですね。 朝日新聞の報道でも出ましたけど、 戦後のオーストラリアではこの事件に関係した空軍のパイロットだと思いますけれども、 200人ほどの漂流している日本兵を銃撃して全部殺した事件があって、 そのパイロットを戦犯として処罰しろという要求が出てきて、 大論争になったことがあるんですね。 そういうことがあります。 ここでいいたいのは、 アメリカやオーストラリアの良心的知識人たちが自国の戦争犯罪の問題を、 自国の日本軍に対する戦争犯罪の問題を正面から取り上げて論議しているときに、 藤岡信勝氏や小室直樹さんや渡部昇一さんたちは その戦争犯罪を肯定するような助け船を実際は出しているわけですね。 自虐史観とか言いながらですね、 アメリカや連合軍の戦争犯罪を追及できないような戦争観が一番自虐的なんではないかと僕は思います。 結局そういうことで、自国の戦争犯罪にきちんと対処できない限り、 他国の戦争犯罪にだってきちんと対処できないんですね。 そういうことだと思います。

強調は引用者による。次は青狐さん経由で知ったニュース。

南京勉強会で東中野教授「処刑はあっても虐殺はなかった」


自民、民主両党の若手国会議員でつくる「南京事件の真実を検証する会」は13日、国会内で会合を開いた。東中野修道亜細亜大教授が旧日本軍の記録や将兵の日記をもとに、捕らえた中国兵の「処刑」はあっても「虐殺」はなかったとする研究結果を説明した。東中野氏は「国際法で保護される捕虜に相当する兵はいなかった」と指摘した。

このタイプの主張は、上で引用した吉田裕の講演ですでに批判されている。

(…)そういう議論を立てているんですけど、 それもやはり全部日本に跳ね返ってくるんですね。 たとえば沖縄戦を考えてもらえばわかりますけど、沖縄戦は45年の6月23日に、 牛島満という第32軍の司令官と長勇という参謀長が自殺しているんです。 東中野修道の論法でいえば、 彼らは自殺することによって司令官としての職責を放棄した、 指揮官がいなくなってしまった。 正式の司令官がいなくなった以上、 正式に日本軍が降伏文書に調印するのは9月7日ですけど、 それまで散発的に潜伏している日本兵アメリカ兵の間に戦闘が続いているのですが、 その場合、投降してくる日本兵は殺しても構わない、 国際法の適用範囲外だから殺してもかまわない、という議論になるんですね。

会に出席した国会議員に問いたいのだが、あなた方は自衛隊員にこんなはなしを聴かせることができるのだろうか? 自衛隊員が南京防衛軍の将兵と同じ立場に立たされることは、現実的な蓋然性としてはあまりありそうにないものの、可能性としてはあり得るわけである。