『ガイサンシーとその姉妹たち』(上映会)、『ヒロシマナガサキ』、『二重被爆』(TV)

「文献紹介」というタグは妙だけれどもふだん映画については本館で書くことにしているので。


こちらのエントリで簡単に告知させていただいた『ガイサンシーとその姉妹たち』の上映会に出かけてきました。ドキュメンタリー映画として考えた場合に、監督の班氏が取材をはじめたときにはすでに「ガイサンシー」こと侯冬娥さんがすでに亡くなっており(自死と推定されている)、不在の中心をめぐって映画が展開するところに特徴があるのだが、こうした側面について語るセンスが私には欠けているので、自分に可能な範囲でいくつか書いておくことにする。中国戦線、特に高度分散配置がとられた華北では、軍慰安所のある街から遠く離れた分屯地でこの映画に登場するような私慰安所(というより端的に強姦所)がつくられたという話は、元将兵の従軍記、回想にも時おり出てくる。自らの性暴力を語る元将兵は非常に少ないが、上官や古兵のそれを告発する証言はなくはないのである。私がこれまで読んだ範囲でも、この映画で語られている二つの類型ーー直接日本軍将兵が拉致して、場合によっては身代金をとるケース、そして日本軍がつくった治安委員会などを通して人身御供を差し出させるケースーーについての証言を見かけた。「強姦防止」が目的の一つだったとされる軍慰安所であるが、軍が兵站施設の中に公式に買春施設を組み込んだことで逆にこうしたあからさまな性暴力への敷居を低くしてしまったのではないかと思われる事例である。
監督の班忠義氏は中国残留日本婦人(孤児、ではなく)にかかわってきた人物で、日本への留学経験もあり、配偶者も日本人ということで通訳抜き、日本語でのトークイベントだった。以下私の記憶にしたがって印象に残った点を記す。撫順市、それも平頂山事件の現場の隣の村の生まれとのことである。華北だけでなく雲南省での調査も行っており、また旧日本軍の組織や体質についてもよく調べておられるという印象を受けた。他方、中国側の問題点についても“非民主的な体制下では市民の戦争被害がきちんととりあげられない”、“性暴力の被害者への差別”などが指摘され、その意味で韓国の民主化により被害者が名乗り出るようになったことの意味は非常に大きいと指摘していた。
なお、この映画で扱われている地域の日本側当事者は独立混成第4旅団で、この旅団は後に第62師団に改編され、河南作戦(大陸打通作戦の一部)に参戦、さらには沖縄に渡って第32軍の隷下にはいり、そこで終戦を迎えている。独混4旅〜第62師団の生き残りでこの映画にも登場する元日本軍兵士、近藤一氏については、氏からの聞き取りに基づく次の2冊の文献がある。


ヒロシマナガサキ』の前に『ガイサンシー…』を観る機会があったのはたいへん好運だった。というのも、前者は日系アメリカ人が、まずはアメリカ人の観客を想定して被爆の実態と被爆者の戦後を描いたものであろうから、それを日本で日本人が観る際の文脈は一次的に想定された文脈とは当然異なる。これに対して『ガイサンシー…』は日本をよく知る中国人が、まずは日本人の観客を想定して旧日本軍による性暴力を描いたものであるから、二つの映画の間で『ヒロシマナガサキ』をアメリカ人がどう観るか、また『ガイサンシー…』を中国人がどう観るか…が浮かび上がってくるからである*1
ちなみに原題は White Light / Black Rain 。いいタイトルだと思うのだが。
私も子どもの頃に『はだしのゲン』(作者の中沢啓治氏も映画に登場する)の映画を学校行事で観て、コミックも読んだ(同級生に借りた、と記憶している)くちなので、被爆の実態についてなにかしら“新しい知識”を得ることができるのかといえば、必ずしもそうではない。しかしながら(『ガイサンシー…』にも共通することだが)老いた被爆者がカメラの前で語る姿*2にはやはり、月並みな表現ではあるが本から得られる知識にはないものがある*3。そして旧日本軍の犯罪の被害者たちの証言を「嘘」と決めつけ、沖縄戦の生存者の証言を「嘘」と決めつけ、時として被爆者の証言にすら冷笑的な態度をとる人々が一体なにを怖れているのか、がはっきりとわかるのである。要するに彼らは「声を聞く」ことから懸命に逃げようとしているのだ。
なお、監督がどこまで意識したのかはわからないが、結果として証言が三つの言語(日本語、朝鮮語、英語)でなされていたというのも非常に効果的であるように思う。


二重被爆』はCATVで放映されていたのを録画。人類の歴史の中でたった二度しかない出来事に二つともに立ち会った人間が存在するということには、この映画を知るまで想像がまったく及ばなかった。そもそも8月6日から9日のあいだに広島から長崎まで移動できたということが想像できなかった。しかしながら、日本の海上輸送を徹底的に叩いた米軍は、実は本土の鉄道網にはほとんど攻撃を加えていなかった。吉田裕の『アジア・太平洋戦争』でも紹介されているのだが、船舶の被害率が80.6%に達するのに対し、鉄道・軌道のそれはわずか7%にすぎなかったのだそうだ。イメージ(敗戦直後の、買い出し客や復員兵で鈴なりになった客車の写真、など)が現実を裏切っている事例であろう。この映画には、考えてみれば当然とも言えるのだが、銃撃されてなくなった伊藤一長・長崎前市長が登場している。非核政策などと絡んだ政治的な背景のない事件である可能性が高いとはいえ、暴力のなんたるかを見せつけられた思いである。

*1:もっとも両者のあいだには大きな違いもある。「性奴隷なんていなかった、いたのは売春婦だけだ」といった言い訳は国際的にはまったく通用しないのに対し、「原爆は戦争の早期終結のためにはしかたなかった」はアメリカ国外でもある程度支持されている見方だからである。その意味では、アメリカ人が『ヒロシマナガサキ』に直面する方がより困難であると言えるかもしれない。IMDBのユーザーレビューではかなり高い評価(8.4)を得ているけれども、この種の映画はそもそも高評価を与えそうな人間しか観そうにないという問題はあるし。

*2:あるいは語れないことを告げる姿。一人の被爆者はいまだに死んだ妹の名前を口にすることができないと語っている。

*3:もちろんこの力は、映像が人をミスリードする可能性にもつながっているのだが。