『満鉄調査部の軌跡』ほか


正月に解消できなかった「積ん読」の一冊をようやく読了。『満鉄調査部の軌跡』は満鉄調査部*1の歴史を大きく4期に分けている。創立期(1907-1916)、ロシア革命勃発から満州事変まで(1917-1931)、満州事変から満鉄産業部設立まで(1931-1936)、日中戦争から敗戦まで(1937-1945)。著者自身によれば、従来満鉄の初代総裁 後藤新平の個性と結びつけて論じられることが多かった満鉄調査部は、後藤およびその後継者中村是公の退任後急速に影響力を低下させている。再び調査部が重視されるようになるのはロシア革命以降のことで、それゆえ本書は満鉄がおかれた地理的、政治的な位置を重視した分析となっている。
当ブログで普段扱っている話題との関連で言えば、興味深いのは第3期と第4期の前半ということになる。特に2点を挙げるなら、第四章第五節「華北分離工作と満鉄」、および第六章「日中戦争後の満鉄調査部 1937〜1941」。前者は満鉄調査部が「関東軍支那駐屯軍と連動しながら盧溝橋事件へと連なる華北分離工作への道に全面的に関与」したこと、すなわち華北に傀儡政権を樹立した場合に必要となる開発計画とその前提となる調査に満鉄調査部が関わったことについての分析。当ブログの読者の方は永井和氏の「日本陸軍の華北占領統治計画について」(『日中戦争から世界戦争へ』所収)を連想されるかもしれないが、果たして小林氏も同論文(ただし『人文学報』掲載のバージョン)に注で言及している。日中戦争に関してしばしば議論になるのがその計画性(の有無)であり、「田中上奏文」が偽書であるという認識が中国ではなかなか浸透しなかった*2理由もその点に関わっている。たしかに日本政府や軍部の「計画性」を強調しすぎると当時の指導者を(皮肉にも)過大評価してしまうことになりかねないが、支那駐屯軍関東軍といった水準においてであれ軍事作戦計画、占領統治計画に加えて経済開発計画まで存在していたのであれば、ある種の「侵略計画」はあったとしか言いようがあるまい。
後者については、39年5月から調査が始められ翌40年末までにまとめられた「支那抗戦力調査報告」が興味深い(これについては第九章第五節も)。後の「満鉄調査部事件」が示唆するように、満鉄調査部にはマルクス主義的な(特に「講座派」的な)方法論を身につけたスタッフが少なからず在籍していたわけだが、そうしたスタッフがこの時期に日中戦争の先行きについてきわめて悲観的な報告書を作成し、しかも陸海軍軍人のうち「南進」によって事態を打開しようという発想の持ち主にはその報告が非常に好評だった、というのである。逆に中国戦線で決着をつけようという発想の軍人には不評だったわけで、いずれにしても“泥沼化した戦争から手を引く”という発想につながらなかったのは「上手く負ける」ことの難しさだといえばそれまでだが、後知恵ではなく当時のパースペクティヴにおいても「中国からの撤兵」はリアルな選択肢であった(ありえた)わけである。


『司法官の戦争責任』の著者が敗戦後に司法修習生となったとき、研修所の所長だったのはかつて「満州国」の最高法院審判官だった法律家であったという。本書は有力な法律家が「満州」に渡って何を行ない、戦後にその責任をどうとったか(というより、一部を除いてどうとらなかったか)について、多くの実名を挙げて告発している。
いくつか興味深かった記述を紹介したい。まずは「満州国」における「保安矯正法」について。引用の中に長い引用文があるので紛らわしいがご容赦いただきたい。

(…)保安矯正法には治安対策としての保安処分の他に、労働力確保のための強制労働法の性格をもっていたものと思われる。いやむしろ保安処分の名を借りて強制労働の体制を法律化したもの、というべきだろう。伊達秋雄も「その立案と運営に参画した」(同『半生の記』)。彼は書いている。
「それは国内にあふれていた浮浪者、労働嫌忌者の群れをかきあつめて補導院に収容して労働に従事させようという、戦時下における労働力の確保という狙いのあったことも確かである。しかし保安処分と銘打っている以上、ただの浮浪者というだけでは対象者にするわけにはいかないから、やはり虞犯者という要件が前提となっていたことは当然であった」、「当時満州では石炭堀などに膨大な労働力を必要としていたので、政府は行政機関を通じて強力な浮浪者狩りを行って労働者を炭坑などに送り込んでいた。それはまさしく強制的な措置で、しかも驚くべきことに何等法的根拠もなく、全く行政措置で行っていた。その数は十万をこえるといわれていた。太田さん〔=〔満州国」司法部刑事司長だった太田耐造〕はこの現実に非常な怒りを覚えた。かくてこの乱暴な行政措置をやめさせるために保安処分制度を実施させたのである」(「法治主義に徹して」、『太田耐造追想録』所収)。しかし「浮浪者又は労働嫌忌者にして浮浪又は労働嫌忌に因り罪を犯す虞あるもの」などという要件では、どうやってその「虞」の有無を決めるのか、見当もつかない。実際は浮浪者狩りと少しも変わらなかっただろう。(…)
(49-50頁)

法治主義に徹」するための努力がその実恣意的な「行政措置」にお墨付きを与えたに過ぎない…というこのケースは孤立した事態ではない。山室信一氏は「満州国統治機構のいわゆる「総務庁中心主義」と、それをよくできた制度であると自賛した当時の総務官僚について、次のように評している(『キメラ―満州国の肖像 増補版』、中公新書、179頁)。

 ここには、国法上まったく権限を持たない機関が国策の実質的決定をすることに対しなんらの疑念も抱かれていないのみか、それを自賛さえしており、彼らが中国人に対して誇ったはずの日本の近代的法治主義がいかなる質のものであったかが、はしなくも吐露されている。

強調は引用者によるが、今日における植民地支配正当化論が結局は当時の日本人の中国(人)観を無批判に継承することを考えるとき、これは非常に重要な指摘である。この、いかにも“日本的な法治主義”のあり方をなによりもよく示しているのが、当ブログでも何度かとりあげてきた「臨陣格殺」「裁量措置」である。これは1932年9月に公布施行された暫行懲治盗匪法や暫行懲治叛徒法にあった規定で、要は治安出動した部隊の指揮官や高級警察官が“現場の判断”で法的手続き抜きに「盗匪」「叛徒」を殺害することを正当化するものである。41年末に「満州国治安維持法が公布施行されたのにともなって両法は(その名称からして予期されたように)廃止されたが、治安維持法施行法第一条が「但し暫行懲治盗匪法第七条及第八条は当分の間なお其の効力を有す」としたことにより、その後も「臨陣格殺」「裁量措置」は生き続けた。大谷敬二郎ら元憲兵が、「満州」でのこうした制度が日中戦争での野放図な捕虜殺害の温床となったと指摘していることは、以前にも紹介した。「「法匪」と悪罵されるほどに大量の法を制定し、司法制度の整備をもって文明的統治と誇示した満州国のもう一つの顔がここに紛れもなくあった」(『キメラ』、295頁)。なお本書では、「臨陣格殺」の現場を目撃した法律家の回想も引用されていて、なかなか興味深い。
なお治安維持法に関して興味深いのは、それが「満州国」の「国体」をどう規定しているかである。司法部参事官の解説によればそれは「日満不可分一徳一心の基調の上に立たせ給ふ垂統万年の皇帝の統治権を総攬し給ふ君主国たるところ」にある、とされていた(『司法官の…』、46頁、強調は引用者)。このような文章を書き得た法律家の欺瞞は恐ろしく深い。そして(例えば)横浜事件に対する日本の裁判所の態度をみるとき、戦後の司法がこうした欺瞞をどれだけ総括・反省したかはなんともこころもとない。(公職追放になった法律家の数は限られており、しかも追放解除後にほとんどは復職していった。)


これは余談に近いが、満鉄調査部事件で審判長をつとめ、戦後東京地裁判事に復職した飯守重任は、後に鹿児島地家裁所長時代に「地家裁裁判官に天皇制や資本主義に関する所見をただす質問状を発して地家裁所長を解職され」るなど右翼的言動が話題となった人物だが、敗戦後には例の撫順の捕虜収容書で抑留生活を送っている。そして他の戦犯容疑者同様、自身の「犯罪」についての克明な「手記」を書き残している。当然ながら後になってこれは「偽装の作文」であったと否認しているわけであるが、中帰連メンバーによる証言を「洗脳」の一言で片付けようとすることの愚かさを示す傍証の一つとなろう。

*1:時期により名称が変化したり、別組織がつくられたりしているのだが、一種の総称として「満鉄調査部」が用いられている。

*2:現在ではさすがに状況が変わってきているようだが。