「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」第1回、第2回を見て(追記あり)

この番組について書く前にとりあげたい本もあり、また第3回、第4回も見たうえで評価したいということもあって、とりあえず思ったことを漫然と書いておくことにする。
1月16日に放送された第2回「巨大組織“陸軍” 暴走のメカニズム」について、hokusyu さんが次のようにコメントしておられる。

昨日のNHKの戦争話は、まあ実証歴史学の罠というか。よくあるホロコースト機能派批判がそのまま通用してしまう感じ。つまりカタストロフがあたかも「運命」であったかのように物語られることですが。
(http://twitter.com/#!/hokusyu82/status/26857725812019200)

たしかに「暴走のメカニズム」といったタイトルは視聴者にそうした「物語」を暗示しかねない。第1回の導入部では当時の軍・政府関係者の戦後の発言が紹介されていたが、佐藤賢了の次のような発言*1は「カタストロフがあたかも「運命」であった」が指導者層の理解でもあったことを示していると言えよう。

私はよく東條さんにも言うたんですが、船はまるでナイアガラ瀑布の上まで来てしもうたんだから、右にも左にも舵が切れないです。滝つぼまで飛び込むより他にしようがなかったんだ、と。

鈴木貞一と木戸幸一は次のように語る。

戦争をしなくちゃいかんということを考えておった人は、陸海軍といえどもいないんだな。本当に計算してやれば戦争なんかできないんですよ。

誰だって戦争をやろうと思ってる奴はいない。不思議なんだよ。どうしてああいうことになったのかね。

「計算」に責任をもつ企画院総裁と首相の指名に深く関わった内大臣の発言である。木戸をインタビューした人は「それが知りたいからあんたにはなしを聞いてるんだろうが!」と思っただろうか。余談だが、これらの発言は戦後間もなく資料的な制約もあるなかで丸山眞男が描き出した「軍国支配者の精神形態」を地でいくものであり、東京裁判における被告たちの弁明が単なる法廷戦術ではなく、主観的真実にまで達した自己欺瞞であったことを伺わせる。


他方、第1回の本編冒頭では進行役の松平定知が次のように語っている。

満洲事変から日中戦争、そしてあのいわゆる太平洋戦争へと続く戦前の歴史。その道は、単純な一本道ではありませんでした。いくつもの分かれ道をもつものでありました。

番組のメインタイトルで使われるCGでは戦争へと至る各過程を象徴する写真がドミノ倒しのように流れてゆくのだが、その節目節目には確かに別のルートへと続くドミノが置かれており、上の松平発言を視覚的に裏付けている。また第1回の前半では大方の視聴者のイメージに反するであろうこと、すなわち松岡洋右満洲事変後の国際連盟で列強と妥協することを進言したという事実の指摘が焦点の一つとなっていたが、これも「分かれ道」を示すという制作者の意図を反映したものであろう。もちろん、「分かれ道」の存在を示すことと「カタストロフがあたかも「運命」であったかのように物語られること」とは両立しうるので、この点については全4回を見てから改めて考えてみたいが、私が最初の2回分を見て想起したのは「日中歴史共同研究」についての庄司潤一郎・防衛研究所戦史部第1戦史研究室長の次のようなコメントである(このコメントが収録された防衛研究所の08年12月分「ブリーフィング・メモ」は以前公開されていたにもかかわらず削除されているようだが、幸い〔←コメント欄をご参照ください〕ni0615さんがアーカイブしておられる)。

こうした相違は、「共同研究」における方法論をめぐる討議や中国側の言説においても散見された。日本側は、個々の具体的「事実」を検証するとともに、その客観的な原因に関して政策決定過程を通して究明する傾向が強い。その結果として、当時日中間には戦争だけではなく様々な選択肢・可能性が存在していたとされるのである。一方中国側は、近代日中関係の根底にある必然的な流れに着目し、近代日本の「侵略」の計画性・一貫性とそれに対する中国の「抵抗」といった図式で歴史を理解しようと試みるのである。例えば、日中戦争の発端となった盧溝橋事件に関して、日本側は、最初の一発の検証を踏まえ偶発性を指摘するが、中国側は満州事変、さらには日清戦争以降の日本の「侵略」との連続性が強調され、その当然の帰結として解釈されるのである。

これが庄司氏ひとりの印象でないことは、「日中歴史共同研究」の成果のうち近現代史を扱った日中双方の論文12本を読み比べた別の研究者によって裏付けられている。

 しかし、同じ侵略戦争という歴史を論文化しながらも、その描き方には違いがみられる。日本側の各論文は、日本が中国に侵略していく過程を詳細に検討し、因果関係を重視しながら、歴史の各時期における様々な可能性や選択肢を重視した歴史叙述になっている。これは日本の侵略戦争一本道で描くのではなく、政治や外交、経済、軍事など様々な状況が複雑に交差しながら戦争という手段を選択した、という描き方になっているといえよう。一方、中国側の各論文は、日本側の論文が示す歴史の複雑さや多様性に配慮しながらも、日本の中国を含む大陸への侵略を、明治維新から断続的に続いたものとして捉えていることが読み取れる。また過程よりも結果を重視し、戦争被害に関する内容を、具体的な数字をあげて詳細に論じていることも特徴的である。
笠原十九司編、『戦争を知らない国民のための日中歴史認識』、勉誠出版、所収の齋藤一晴、「報告書の読み方」、51-52ページ。強調は引用者。なお同書には庄司氏も寄稿しており、日中のアプローチの相違について上記引用文とほぼ同じ認識が改めて述べられている。)

庄司氏は上記の引用に続けて、中国側代表の歩平氏から「ある事項と事柄の非連続性・偶発性・外因性を強調する『非構造的歴史観』は根本問題の判断を忘却させる」という批判が日本側のアプローチに対してあった、と記している。戦争が「必然的」ではなかった(別の道もあった)からこそわれわれは「結局のところ戦争を選択した」ことに対する責任を追及しうる、ように思える。しかしそれが決して自明でないことを歩平氏の批判は示していると言えるのではないか。例えば「誰だって戦争をやろうと思ってる奴はいない。不思議なんだよ。どうしてああいうことになったのかね」といった問題意識を満足させるような学問的な歴史記述は、「責任」という観点からみた時にはどのようなものとなるのか……。


追記
第2回の結び部分で、41年10月14日の閣議における東條陸相の発言と戦後の鈴木貞一の回想が紹介されている。

日米交渉はどん詰まりである。撤兵問題は心臓だ。アメリカの主張にそのまま服したら、支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危うくする。駐兵により事変の成果を決定付ける事は当然であって、世界に対し何ら遠慮する必要はない。

私も満州から帰ってきた時に靖国神社に行ったんです。そうするとあそこにずっと遺族が並んでいるんだ。それを見て「ああこんなに人が死んでいるのか」と思うと、「これはなんとかしなければいけない」という気持ちになりますね。申し訳ないという気持ちにね。従来の軍の性格からいってだね、自分らは自分たちのやった成果に対して言い訳の立つだけのことはしなければいかんと。それはね、そういう気持ちになりますよ。

「ああこんなに人が死んでいるのか」ではなく「ああこんなに人を死なせているのか」と思うべきだったのであり、結局のところ日中戦争という誤りを「成果」などと誤摩化さずに誤りとして認められなかったことが対英米戦につながったわけだが、この点を明示的に指摘するかどうかでずいぶんと視聴者の印象は違ったのではないだろうか。

*1:以下、番組からの引用は画面に出たキャプションに句読点を補ったものや私自身による書き起こしであるが、いちいち断らない。