「綿鉄集」

文藝春秋』の2月号に「中国とこれからの「正義」の話をしよう」と題する「大型企画」が掲載されている。フツーに考えれば『文藝春秋』は「正義」なる概念に懐疑的な立場を代表する雑誌じゃないのか? とも思うが、まあそれはいいや。サンデル先生恐るべし。
冒頭には「若杉参謀」こと三笠宮(崇仁)が1944年に執筆した「支那事変に対する日本人としての内省(幕僚用)」という文書の付録である「綿鉄集(政略乃部)」が収録されている(「解説」にあるように、『THIS IS 読売』1994年8月号で全文が発表されている)。これは「中国人に接する日本人として心得るべき事柄」のうち「基礎的で、しかも重要と考えたもの」をまとめてみたもの、とされている。

一、日本と英米の対華政策の差異
 中国人は「水」である。いかなる器物にも調和できる。
 英米人は「綿」である。肌触りは至極微温的で、いつ水中に入ったのかさえ気づかせない。そして綿が水から離れる時は、綿は一杯水を吸い込んでいる。
 日本は「鉄」である。水に対する威圧は異常なもので、絶対的な圧迫を感じせしめる。しかし鉄が水から離れた時に付着する水量は僅かに数滴にすぎない。
(262ページ、原文のルビを省略)

「綿鉄集」というタイトルの由来はこの一節であろう。
この文書が発掘された際に三笠宮にインタビューした当時の担当編集者、中野邦観氏による「解説」では、「支那事変に対する日本人としての内省」における陸軍批判、戦争犯罪の指摘がかいつまんで紹介され、インタビュー(その一部はゆうさんのサイトで紹介されています)でも「日本軍の暴虐ぶり」などについて語っていたことも記されている。このあたりは、少なくともこの特集を真面目に読む読者に対しては、いかにも上から目線な特集タイトルへの牽制球として機能するかもしれない。とはいえ……

 日本は「官主民従」であり、法令規則で民を動かせる。中国は「民主官従」であり、法令規則で民を動かせない。しかも中国は「官」と「民」とのは昔から連携なく、一体化していない。
(262ページ)

といった描写が本質主義的民族観と合体した時にどういう効果を発揮するか? ということをやはり考えてしまう。「綿鉄集」の冒頭、それが安易なマニュアルとして利用されることを危惧して次のように釘がさされているのは著者の見識を示すものではある(解説でも以下に引用する箇所の重要性が指摘されている)。

 従ってこれを見て、直ちに「中国通になった」と鼻を高くされては、生兵法怪我のもとになる。さらにこれを基礎として、深く深く、中国の地理(気象)、歴史及び、これにより、数千年の長きに培われてきた中国人独特の性格、風俗、習慣、言語等を探求体得されて、公私における中国人との付き合いに、過ちなからんことを期せられたい。
(261ページ、原文のルビを省略)

これ自体にも民族性を歴史的に形成されたものとしてみる態度ではなく、歴史を通じて不変の本質を探ろうとする態度が現れているといえるが、日本の文脈を考えるならビジネス誌に「『三国志』を読んで中国市場を理解しよう」みたいな与太企画が登場することを助長しなければよいのだが……と、少々不安になってしまう。