「すべてを知っているのでなければ何も理解していないと同じだ」論法

本館の方で扱ってもよいテーマなのだが、あえてこちらで。
日経サイエンス』、「英語で読む日経サイエンス — "Should Science Speak to Faith?"「科学と宗教は対立するのか」より抜粋
ローレンス・クラウス(物理学者)とリチャード・ドーキンスの討論の一部。

クラウス (…)
一例を挙げましょう。私は折に触れ,創造主義者や宇宙人誘拐者説の狂信者と議論してきました。両者とも解釈の本質について同様の考え違いをしていて、「すべてを知っているのでなければ何も理解していないと同じだ」と思っているのですね。
議論のなかで、彼らは解しがたい主張,例えば1962年にモンゴルの人たちが教会の上に空飛ぶ円盤が舞っているのを目撃した、という話を取り上げます。そして私にこの話を知っているかと尋ね、私が知らないと答えると、決まってこう言う。「この種の事例を調べ尽くしていないのなら、『宇宙人による誘拐は起こりにくい』と主張することもできない」。

「あるある!」と口に出してしまいそうになりますね。言うまでもなくこの種の態度は、方法的懐疑としてならばともかく、実際に科学的探求を導く指針にはなり得ませんし、実生活における指針にもなり得ません。したがって…

そこで私は、この論法について考えてもらうために、彼ら自身を利用する手を思いつきました。つまり創造主義者に「空飛ぶ円盤を信じますか」と尋ねるのです。当然答えは「ノー」。そこで私はさらに聞く。「なぜ?この種の主張をすべて調べたのですか」。同様に宇宙人誘拐者説の信者には「若い地球創造説を信じますか」と聞く。彼らは科学的に見られようとして「ノー」と答える。そこで私は尋ねます。「なぜ?個々の反論を漏れなく検討しましたか」──という具合。
私が両者に示そうとしたのは、解しがたい反論を個別にすべて検討するのではなく,既存の膨大な証拠に基づいて理論的に予測することが実に賢く実際的であるということ。この“教授法”はほとんどの場合うまくいきましたよ。

ということになるわけです(強調は引用者)。「ただ」、とクラウスは続けている、「まれな例外があって、その時の相手は,後でわかったのですが、宇宙人誘拐者説の信奉者であると同時に創造主義者でもあったんです」、と。もちろん、南京大虐殺を否定するためになら「シベリア抑留なんて知らない」と平気で言い張る人間にもこの方法は通用しませんが。