映画 "Nanking" の対日批判

すでに本館の方で昨日エントリを書きましたが、一点だけこちらでも書いておくことにします。
映画の終盤、マギー・フィルムを携えてアメリカへ帰国したジョージ・フィッチ(を演じる俳優)が、アメリカ各地での講演会(上映会)について語っているシーン。ある会の後で、一人の日本人がやってきて、「日本人にはあのようなことはできない、だからあなたが語ったことは嘘だ」と言ったというのです。否定派が好んで用いる本質主義的な議論はすでにリアルタイムで存在していた、ということです。これに対してフィッチは、「私には日本人の友人もおり、多くの日本人にはあのようなことができないことは分かっている。しかし、残念ながら、私の語ったことは真実だ」と返答します。
今日では、われわれはフィッチの返答も正しくないことを知っています。日本人であれ何人であれ、通常の状況ではほとんどの人間は「あのようなこと」を行うことができないが、いくつかの条件がそろえば逆に多くの人間が「あのようなこと」に手を染めてしまうのだ、と。
このような映画を企画、制作し、出演し、またわざわざ観にいこうとするような人間にとっては、(1)南京大虐殺には個別の歴史的出来事としての消せない固有性があり、(2)個々の被害者にとって彼/彼女らの被害は比較を絶する個別的なものである、という二つの前提をおいた上で、(3)しかし歴史上(近現代史上に限っても)このような残虐行為を行ったのは日本(軍)だけではない、ということは常識に属すると言ってよいのではないでしょうか。ですから、この映画は本質主義的な日本への非難からははっきり距離をとっていますし、フィッチらの働きかけに対して国際世論がきちんと応えなかったことも指摘しています。むしろこの映画が最も厳しい日本批判を行うのは、「現在でも多くの日本人は南京大虐殺が誇張されており真実ではないと考えている」という趣旨のテロップがでるシーンであると言えます。何度も繰り返し述べてきたことですが、この映画を「反日映画」と主張するような人々の振る舞いこそが、この映画の制作陣に日本批判の根拠を与えているのです。