毎日新聞「平和を訪ねて」アーカイブ

以前に「南京−沈黙の深い淵から」と「快楽としての戦争」という連載を紹介した毎日新聞「平和を訪ねて」アーカイブ。「快楽としての戦争」は全5回の連載を終え、現在は「呉戦災・軍港都市の悲傷」というシリーズが始まっています。「快楽としての戦争」のうち、前回紹介して以降掲載された第3〜5回から、印象的な部分をば。

 《手あたり次第ぶちこわしつつ室内をめぐる。破壊といふ事はなす者はとても愉快なものだ。充分満足した。破壊々々何んぞ吾人の興味をそそる事ならず也》


 福岡県宗像市の承福寺にある通信兵の陣中日記に、こんなくだりがある。昭和7(1932)年の上海事変で、現地の鉄道機関庫を巡視した日のものだ。その時の快感は強烈だったようで、銃創を負って帰国し、入院中だった同年8、9月に記した「陣中随感」と題した文にも出てくる。


 《机であれ何物でも手当り次第こわしていった。その時の小気味の良さ。大体人間には破壊性と云ふものがあるのかも知れない。或いは又余に破壊に対する欲の大なるのかも知れない。何れにしても愉快であった》


 「陣中随感」の中で通信兵は、上海在留日本人の高慢で人を人とも思わぬ振る舞いを憤り、「こんな奴等と接触する異人(中国人のこと)が、邦人を誤解し侮蔑し、果ては排斥するのは又止むを得ない事だと思ふ」と記している。また「支那の良民が此度幾人殺されてゐるか知れない。たゞ良民をつかまへて来て片はしから切ってしまったのだから惨酷とも何んとも申し様のない仕様だった」と批判もしている。破壊の快感は、そんな理性的な人物をも魅了したのである。


 世界各地の従軍兵士の精神分析を行ってきた精神病理学者の野田正彰さん(64)はその感覚を「力に酔う」という言葉で表現する。


 「イスラエル兵が言っていました。戦場では力に酔ってくるって。自分よりもずっと年上のパレスチナのおじさんたちを、立っとけとか言って、炎天下に一切水を飲まさずにカラカラにしたり、装甲車で自動車をグチャグチャに壊したり。そうすると、何でも思うままにできるような力の感覚が起こってくると言うんです。だから戦場から日常に帰ると、すべてがまどろっこしく感じると」
(「快楽としての戦争/4 力に酔うということ」)

この「力に酔う」という感覚がごく普通の人間をも虜にしかねないことは、ナチの絶滅収容所や日本軍の捕虜収容所、旧ソ連ラーゲリなどを筆頭に程度の違いはあれど同様な施設での各種のエピソードから知ることができるし、スタンフォード監獄実験によっても裏付けられる。今日の日本社会でも、べつだん拘置所や刑務所を引きあいに出すまでもなく、いわゆるパワハラというのは基本的には同様な機序によるものなのだろう。