トリアージは包丁じゃないよ

福耳先生だってトリアージを「例え」に使ったわけではないと思うんだが。リソースの最適な配分が求められまた実行されることの“実例”として持ち出されたんだよね? hokusyuさんも「例」として持ち出されたと認識していて、それに対してもう一つの“実例”としてホロコーストに言及したわけですが。

というか、そもそも「限られた資源〜」の例としてトリアージを出したのがfuku33氏でしょう。彼は救急救命の講師としてきているのではなく、経営学の講師としてきているのですし。ベースとしての「緊急時における苦渋の選択」を越えた意味でトリアージを使っているわけで、そこを批判しているのにそもそもトリアージって限定的な意味ですよといわれても困ってしまいます。
トリアージが「限られた資源〜」の「正当化」の例に用いていいなら、かわいそうな象もホロコーストも「限られた資源〜」で読めますけどいいのってことです。

まさか漢字が同じだから「例」と「例え」が区別されてない、ってこと?


というのはさておき、初めは「なんじゃそりゃ?」と思っていたのだが二つ重なると一つの思考パターンとしてありうるのか、と思われることについて。
http://d.hatena.ne.jp/smectic_g/20080808/1218204032
http://d.hatena.ne.jp/Sokalian/20080813/1218640615
トリアージ=道具」説、ですな。まあ smectic_g氏は「道具」説にコミットしているわけではないようだけど HALTAN氏がコミットしていると判断しているわけで。「道具に責任がある」という表現は、例えば「銃が人を殺すのではなくて、人が人を殺すのだ」が銃規制反対派のスローガンであることからも分かるように、対立する立場から矮小化を狙った表現だと思うのだが、まあそれはここではいいや。道具なんだからふさわしい機会にふさわしいしかたで使えばいいんであって、誤用されたらそれは誤用したやつの責任だ、ってわけですな。しかし「道具」説が隠蔽してしまうのは、トリアージが何重もの意味で人間による意思決定だ、という点。まず(1)緊急時にはトリアージを行なうのだ、という意思決定があり、次に(2)「なにが緊急時か」に関わる意思決定があり、それから現場での(3)誰にどのタグをつけるかという意思決定(これは「どのような状態の人間にはどのようなタグをつけるか」という事前の決定、とした方がよいかもしれないが)、があるわけである。で、まず(3)のレベルでの意思決定は一連の(一方通行の)議論の中で基本的には問題にされていない。(1)についても、それが意思決定であることは自覚すべきであるという主張はあるけれども、「限られた資源でなるべく多くの人を救う」という目的に否定し難い意味があることは否定されていない。トリアージそれ自体ではなく経営学の授業の中でトリアージが扱われたことが問題になったのは、主として(2)のレベルに関連して、だ。

なぜならば、トリアージがいったん、たとえば我らが経営学者様の手にかかって、救急救命の手を離れ一般的に通用する理論としてみなされたとき、上のような全体主義思想が復活するのです。
(http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080523/p1 強調は引用者)

こんにち大災害の現場で行なわれるトリアージの場合、リソースの絶対的な不足という前提は基本的に疑問の余地がないものです。しかし「リソースの不足」が主張される場合一般についてそれがほんとかというと、これはけっこう疑わしいわけです。「満蒙は日本の生命線」なんてスローガンがもてはやされたことがありましたが、事実は「満蒙」を失っても日本は滅亡しなかったわけです(後略)。
(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080528/p1)

すでに指摘したように、親衛隊員を含む多くのドイツ人にとってユダヤ人やボルシェビキや障害者や同性愛者を殺害することは決して楽なことではありませんでした。現に、障害者の殺害については、国内での反対をうけて表向き中止されています(「かわいそう」が機能したわけです!)。そうした心理的抵抗を超えて大量殺害を可能にしたのが「例外状態」という想定――そう、まさにトリアージが要請されるような――だったわけです。しかしもちろんこの「例外状態」は、「アーリア人種」の観点から一方的に想定されたものでしかありませんでした。そして大災害の場合ならともかく(そして経営学も基本的には大災害時のあるべきふるまいを研究対象としているわけではないでしょう)、「例外状態」が言い立てられる時にはたいてい似たようなものであるわけです(「満蒙は日本の生命線」もそうでしたし、文革だってそうです)。
(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080529/p1)

トリアージを包丁なんかに「例え」たんでは、こうした議論の構造がまるで見えなくなってしまうのである。