コメント転載

Wallersteinさんのところで投稿したコメントより(変換ミスを訂正済み)。

それはさておき、hokusyuさんや私を決定的に批判しようと思えば、その最も有効な手段はホロコースト研究に依拠してわれわれを批判すること、なんですね。われわれの言っていることがおかしければ、それはホロコースト研究の伝統に照らして「も」おかしいはずですから(さもなくば、そもそもホロコースト研究全体がおかしい、ってことになってしまう)。しかし興味深いことに、そのような方法でわれわれを批判しようとする人は誰ひとりいなかったわけです。hokusyuさんは最初から、彼の批判が「歴史社会学的な観点」からなされていることを明言しています。私はそれを受けて柿本昭人さんの著書を紹介しました。また、これは明示的にはリンクしなかったと思いますが、その数日前の5月21日のエントリでは、芝健介さんの『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』(中公新書)を紹介してます(非常に簡潔なこのエントリでも、「かわいそう」の排除と大量殺戮との繋がりには触れています)。しかし誰ひとり、こうした成果をふまえてわれわれを批判しようとしない。HALTAN君なんて「衒学という脅し」だと言い出したわけですよ。後から登場して、「他の学問分野への敬意」を云々するのであれば当然ホロコースト研究の基本的なところ(「新書一冊」)くらいはふまえて論じてもいいんじゃないでしょうか? また、そうすることなしにhokusyuさんや私の言ってることが「理解」できるもんでしょうか?

で、例えば次のようなところに理解の限界が現れているわけです。

さて、ここで逆に問うてみたい。ホロコーストトリアージの共通点はどこにあるか?「資源の希少性」と「合理主義」しかないのである。ホロコーストトリアージを関連づけている人たちは、この2点だけの共通点だけの根拠しか持っていないのである。
(http://d.hatena.ne.jp/Sokalian/20080817/1218987109)

あれだけ度々強調された「緊急事態(例外状態、極限状態・・・)」というファクターがすっぽりと抜け落ちています。好意的に考えるなら「資源の希少性」に「緊急事態」も包含されていると考えているのかもしれない。ある意味ではトリアージを要請するのは時間や医療スタッフ、設備などの極端な不足、ですから。しかし「資源の希少性」ならそれこそ「ありふれた」問題であって、トリアージを要請する「緊急事態」とは単にその希少性が極端な場合、にとどまるものではない。というのも、「緊急事態」と認識されることによって通常では許容されないことが許容されるからです*1。ここに質的な相違を見いださないならば、そもそも「カルネアデスの板」「トロッコ問題」「臓器くじ*2」「救命ボート問題」といった思考実験は意味をもたないことになります。逆に言えばこれらの思考実験が意味をもつものとして受けいれられているということは、平時における「資源の希少性」と「緊急事態」との間に線が引かれている、ということです。そして福耳先生への批判のポイントはまさに、この「緊急事態」という前提への留意(ないしは学生がその前提に留意できるような配慮)が欠けていたのではないか? という点にあるのです。批判のポイントが理解できていないのでは、批判が理解できるはずはないですね。

*1:当時のほとんどのドイツ人にとってもユダヤ人や障害者の殺害は心理的抵抗なしには行なえなかったことであり、それゆえさまざまな“工夫”が凝らされたこと、ガス室もまたそうした工夫の一つという側面を持つことはすでに本ブログで指摘しました。

*2:この思考実験はいわゆる「極限状況」についてのものではないが、他の思考実験と比較することにより、リソースの有限性という問題一般と「極限状況」との違いを考えることができるだろう。この注追記。