「戦後は終わらない〜硫黄島・日米元兵士」

15日深夜(日付としては16日)に関西では関西テレビで放映されたドキュメンタリー、「戦後は終わらない〜硫黄島・日米元兵士」。硫黄島の戦いについては比較的文献も多く、なによりC・イーストウッドの二部作でより知られるようになっているので、戦闘のマクロな側面についてはこれといって目新しい情報はない。しかし日米の生存者が語る体験は(あるいは体験を語るその語り口)は常に個別的なものであって、同趣旨の別の番組をいくつか見ていてもなお聞くべきものがある。例えば補給のために強行着陸した2機の日本軍機に積まれているのが竹槍や花火だったことを知った時のことを語る元兵士。手に何かを持って這ってくる日本兵を目の前で射殺した元海兵隊員は、死体に近づいて爆発物だと思ったものが実は箸箱だったことを知る。手榴弾で殺した他の日本兵とは違って、目の前で射殺したその日本兵のことは頭を離れない、と語る。今では「彼とは親友になれたかもしれないのに」といった想いに駆られる、と。

2008年08月16日 harutabe 「お前がかわりに死んでくれたから俺は生きてます」って思うのってそんなに不自然なことかな
(http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080815/p1)

米軍に封鎖された洞窟に籠っていたある生存者は、部下が手榴弾で自決した際の爆風で外に出ることができ、生き延びた。このような個別の場面をとれば、もちろん「お前がかわりに死んでくれたから俺は生きてます」という認識に実質があることはある。しかしそれは戦場の現実のごく限られた一面にすぎない。特に日本のあの戦争の場合。というのが一つ。
もう一つは、問題なのは「自然か、不自然か」ではないということ。そのように考えることが何を封印してしまうか、が問題なのだ。


なお、番組に登場した生存者の一人が一昨年従軍記を書いている。

  • 秋草鶴次、『十七歳の硫黄島』、文春新書