周回遅れという自覚がないと自分がトップランナーに思える

ここ数日展開された東浩紀批判の書き手って、少なくとも私が気づいた範囲では、(1)科学(学問)がなんども相対主義懐疑主義の洗礼を受けてきたこと、(2)ポストモダンもその一つであることを認めたうえで、そして(3)そうした洗礼には一定の意義(人によって程度は違うだろうけど)があったと考えつつもなお、(4)あえて安易に「絶対的真理なんてない」と言わないことにコミットしている人ばっかりのように思うんだけど、違いますかね? なんか約一名、「俺の前にランナーが見えないのは他の連中がみんな周回遅れだからだ」と思い込んでる人がいるようで。