『昭和十年代の陸軍と政治』

bewaadさんに勧められてからもうずいぶんと経ってしまいましたが。
先日テレビ朝日が『落日燃ゆ』を放映したとき、私は「ひょっとして筒井説をとり入れてるのでは?」と期待したんですね。廣田弘毅が問われた責任としては南京事件の際の対応(外相時)と並んで、軍部大臣現役武官制の復活(首相時)がよく知られているから。原作発表以降の研究に照らせば城山三郎の廣田像はひいき目に過ぎると言わねばならない中、廣田の弁護にとって有力な説が出てきたわけだから使わない手はない、と。結果は期待はずれでしたが。


同じ著者の『二・二六事件とその時代 昭和期日本の構造』(ちくま学芸文庫)では「陸軍が陸軍大臣を出さないといえば、陸軍の現役軍人しか陸軍大臣になれないのだから、その内閣を倒すことができるという重要な制度である(ただし万能ではない)」(133ページ)とされていた軍部大臣現役武官制。それが本書では「決定的政治的要因となるものではない」(306ページ)と逆の結論になるその所以が廣田内閣組閣時の陸軍の介入から米内内閣総辞職までの事例に即して説かれている。著者の意図は「結論」において明確に語られている。

 この時期の陸軍に最も重い政治責任があることはゆるがないところである。しかし、そのことの実態を我々はもっと吟味してみる必要があるだろう。そのことから他の勢力の政治責任を曖昧化することがあってはならないのである。(…)
(306ページ)

ただし著者も、宇垣内閣の組閣を陸軍が阻止した事例を扱った章の脚注で、次のように書いてもいる。

もっとも、次田大三郎や山岡弁護人が東京裁判で言ったように、軍部大臣現役武官制は「宇垣大将組閣の失敗」に「何の関係も無かった」(『極東国際軍事裁判速記録 第九巻』雄松堂書店、一九六八年、六九〇頁)とまでは言い切れないであろう。少なくとも陸軍の反対意志表明のバロメーター的機能は果たしているからである。

評価が難しいのは、現役武官制が復活する以前にも結局予備役・後備役の中大将から軍部大臣が選ばれた事例が存在しないからで、要するに対照群が十分ではないわけである。宇垣一成が結局は大命拝辞に至ったことについて、「宇垣内閣は陸軍の「総意」による「反対」のため流産したのであって、軍部大臣現役武官制のために流産したのではない」とする分析にあえて疑問を呈してみよう。
著者によれば、陸軍から陸相候補者の推薦を断られた宇垣は、自らが現役に復帰して陸相を兼任するという選択肢も検討している。ではなぜこの選択肢は実現しなかったか。湯浅内大臣が拒絶したからである。「どうか寺内に後任陸相を直ちに出せとの勅命か、又は宇垣へ特旨を以て現役に列するとのご沙汰を賜りたい」と申し出た宇垣に対して、湯浅は「どうもこれ以上、陛下をお煩わしすることは」と返答したとされる。天皇が宇垣を現役に復帰させて組閣した場合、陸軍と内閣の対立に天皇が直接巻き込まれることを怖れたわけである。だが、もし現役武官制が復活していなければ、宇垣は天皇の介入なしに陸軍大臣を兼任することができた。組閣できたとしてもどうせ長続きしなかった、というのはその通りかもしれない。しかし三長官会議の結果として「陸相適任者がいない」と空とぼけることと、陸相としての宇垣に次官以下が逆らうというのとでは同じ“陸軍の抵抗”でも意味あいが異なる。とはいえそれから先を予想するのは困難ではあるのだが。結局は実現しなかった「別の可能性」のうち合理性や蓋然性、大義などの観点からどれを有望だったとみるか、というところにかかってくるということか。