秩序の生態学モデル

本書で直接取り扱われているのは学校におけるいじめだが、著者自身「はじめに」で「いじめは、学校の生徒たちだけの問題ではない」とし「普遍的な現象としてのいじめに取り組む」(強調原文)と宣言しているので、私の関心*1に引き寄せてここでとりあげることも許されるだろう。
著者はまず「いじめの原因論」に関して多くの識者が互いに矛盾しあう主張をしていることに注目する。例えば「学校の過剰な管理」vs.「規範意識の希薄化」、「個が突出して強すぎる」vs.「個の脆弱化」、「学校や地域社会の共同性の解体」vs.「学校や地域の共同体的しめつけ」、「日本の「文化」が崩壊したから」vs.「日本の「文化」が残存しているから」、等々。

 結論を先に言えば、こういう思考の混乱は、秩序を単数と考えることから生じる。秩序を、Aタイプの秩序、Bタイプの秩序、Cタイプの秩序というふうに複数と考えれば、右記の難問は解決する。
(19ページ)

具体的には次のようになる。

 現行の学校制度のもとでは、市民社会の秩序が衰退し、独特の「学校的な」秩序が蔓延している。それは世の識者らが言うように、無秩序なのでも秩序過剰なのでもなく、人間関係が稀薄なのでも濃密なのでもなく、人間が「幼児化」したわけでも「大人びた」わけでもない。ただ、「学校的」な秩序が蔓延し、そのなかで生徒も教員も「学校的」な現実感覚を生きているのである。
(26ページ)

わたしたちが生きている複数の秩序はそれぞれ別の秩序との関係のなかであるニッチをしめて存在しており、各秩序はそれに対応した現実感覚を「あたりまえ」のものとして通用させるべくせめぎあう(「学校的」な秩序が優位にあるときには、人命より“ノリを壊さないこと”が大切なのが「あたりまえ」となる)。

 どういうタイプの秩序が優位であるかによって、現実感覚は刻々移り変わり、何が「あたりまえ」か、何が「よい」と感じられ何が「悪い」と感じられるかも変化する。複数の秩序に応じて、複数の「よい」「悪い」が生じる。
 いじめ論者たちが「秩序の解体」を読み込んだり「秩序の過重」を読み込んだりする事態は、ある秩序と別の秩序との生態学的な競合において、一方が勢力を拡大し、他方が淘汰される事態である。
 このような考え方を、秩序の生態学モデルと呼ぼう。
(34ページ、強調原文)

旧日本軍に見られた、一方で「下級のものは上官の命を承ること実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」に象徴される秩序がありながら、他方で中堅幕僚の「下克上」がまかり通り、万年一等兵の古兵が順調に進級した上等兵、さらには若い小隊長あたりをないがしろにできてしまう(「星の数よりメンコの数」)といった現象も、この「秩序の生態学モデル」によって理解できるのではないか。さらに一般化すれば、現在においてもあらゆる軍隊は「市民社会の秩序」と軍の公式の秩序、そしてインフォーマルな軍隊内秩序(ホモ・ソーシャルな“男たちの絆”、あるいは旧軍の内務班的秩序)がせめぎあう場であり、インフォーマルな軍隊内秩序が優勢になるときに例えば次のような現象が起きる、と考えることができるのではないか。

 アフガニスタンに派遣されたドイツ連邦軍の兵士が、人間の頭蓋骨(ずがいこつ)と一緒に記念撮影した問題が深刻化している。撮影時期や所属の異なる兵士の写真が独メディアで次々と公開され、検察当局が死者を侮辱する罪などで本格捜査に乗り出した。政界では与野党間や連立与党内の対立にも発展している。
(asahi.com 2006年11月01日21時27分 http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20061102/p1)

市民社会の秩序においてはもちろんのこと、軍の公式の秩序においても不適切なこうした行動は、しかしホモ・ソーシャルな秩序においては「よい」ことである。兵士の一人は取材に対し「やらなければ『腰抜け』と周囲に見下されると思った」と証言しているが、「腰抜け」というのは仲間内の「ノリ」を壊す者に対して制裁として投げつけられることばである。


第2章では「学校的」な秩序においてはたらいている「心理-社会的なメカニズム」が分析されているが、これもまた学校以外の場面に一般化可能なものであるように思われる。著者が「不全感と全能感の「燃料サイクル」」と呼んでいるのは次のようなプロセスだ。

 つまり、不全感をかかえた者の心理システム(認知情動システム)が誤作動(暴発)を起こし、突然、世界と自己が力に満ち、「すべて」が救済されるかのような「無限」の感覚が生成する。本書では、あらためて、この誤作動の感覚を全能感と呼ぶ。
(68ページ)

 少年たちは、「軍団」ができる前は、普通の生活に満足し、「むかつく」「むかつく」といった生活を送っていたわけではない(中略)。ところが「軍団」のサイクルがまわるにしたがって、前述のように全能を求める内的モード(中略)が著しく中心化し、そのことによって、もともとの内的モード(中略)による生のリアリティが解体し、稀薄になり、今まで慣れ親しんだ世界ができそこなっていく。そして、この世界ができそこなう効果として、最初の存在論的な不全感(「むかつき」)が再生産される。その不全感からさらに全能を求める。これが繰り返されて、不全感と全能感の、いわば心理-社会的な「燃料サイクル」が完成する。
(71-71ページ)

後の方の引用は具体的な事例を念頭においた記述になっているが(「軍団」という語など)、詳しくは原文を参照されたい。また中略したのは掲載された図へのリファレンスである。
例えば非戦闘員に対する虐待や虐殺において「全能感」が重要な役割を果たしているらしいことは、次のような事例からもうかがうことができる。

 《手あたり次第ぶちこわしつつ室内をめぐる。破壊といふ事はなす者はとても愉快なものだ。充分満足した。破壊々々何んぞ吾人の興味をそそる事ならず也》


 福岡県宗像市の承福寺にある通信兵の陣中日記に、こんなくだりがある。昭和7(1932)年の上海事変で、現地の鉄道機関庫を巡視した日のものだ。その時の快感は強烈だったようで、銃創を負って帰国し、入院中だった同年8、9月に記した「陣中随感」と題した文にも出てくる。


 《机であれ何物でも手当り次第こわしていった。その時の小気味の良さ。大体人間には破壊性と云ふものがあるのかも知れない。或いは又余に破壊に対する欲の大なるのかも知れない。何れにしても愉快であった》


 「陣中随感」の中で通信兵は、上海在留日本人の高慢で人を人とも思わぬ振る舞いを憤り、「こんな奴等と接触する異人(中国人のこと)が、邦人を誤解し侮蔑し、果ては排斥するのは又止むを得ない事だと思ふ」と記している。また「支那の良民が此度幾人殺されてゐるか知れない。たゞ良民をつかまへて来て片はしから切ってしまったのだから惨酷とも何んとも申し様のない仕様だった」と批判もしている。破壊の快感は、そんな理性的な人物をも魅了したのである。


 世界各地の従軍兵士の精神分析を行ってきた精神病理学者の野田正彰さん(64)はその感覚を「力に酔う」という言葉で表現する。


 「イスラエル兵が言っていました。戦場では力に酔ってくるって。自分よりもずっと年上のパレスチナのおじさんたちを、立っとけとか言って、炎天下に一切水を飲まさずにカラカラにしたり、装甲車で自動車をグチャグチャに壊したり。そうすると、何でも思うままにできるような力の感覚が起こってくると言うんです。だから戦場から日常に帰ると、すべてがまどろっこしく感じると」
毎日新聞、「快楽としての戦争/4 力に酔うということ」、http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080709/p3

強調は引用者。アジア・太平洋戦争における日本軍の場合、補給の不備やいびつな動員・休暇制度の不備*2、機械化の遅れによる行軍の厳しさなどが「不全感」を亢進させたことは容易に想像できよう。

*1:例えばこちらでのやりとりなど。

*2:以前に紹介した『第11軍通信隊』という従軍記によれば、「日中戦争が始まったときから除隊することなく軍隊生活をつづけ、昭和十七年には六年兵とよばれる信じられないような古参兵」がおり、「現役時代をもっとも軍紀厳正な関東軍独立守備隊で過ごした細野芳太郎軍曹(…)は作戦ずれして軍紀の弛緩した杭州湾組をみた時は、これでも軍隊かと非常に驚いた」という記述がある。軍の公式の秩序ではなくインフォーマルな軍的秩序が優勢となることが常態化していたわけである。http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20070716/p2