『第11軍通信隊』

古書店で見つけた従軍記。著者は元陸軍大尉の久保村正治氏、タイトルが示す通り、高等工業高校を卒業して入営、甲幹として陸軍通信学校を卒業、野戦電信第9中隊の将校として一号作戦他に参加した経歴の持ち主。戦争の裏方である通信部隊の従軍記だが、目次をみると「ジュネーブ条約」と題した一節があるので買ってみた。以下、目についたところをばご紹介。

 電信連隊と異なり、野電中隊には現役兵の入営がなく、兵員の計画的交代が行われなかった。そのため、日中戦争が始まったときから除隊することなく軍隊生活をつづけ、昭和十七年には六年兵とよばれる信じられないような古参兵がおり、この古参兵を杭州湾組と称した。
(31ページ)

杭州湾? ということで『南京戦史資料集』を見ると、なるほど第十軍の通信隊の中に野戦電信第9中隊の名前がある。この年(昭和17年)の7月にはじめて本格的な補充交代要員が派遣されたという。

(…)また、現役時代をもっとも軍紀厳正な関東軍独立守備隊で過ごした細野芳太郎軍曹(…)は作戦ずれして軍紀の弛緩した杭州湾組をみた時は、これでも軍隊かと非常に驚いた。
(33ページ)

交代休暇制度の不備が旧軍の戦争犯罪の背景の一つとしてよく指摘されるが、現場にいた将兵の実感でもあったわけである。
中国戦線での従軍記の例に漏れず、徴発という名の略奪についての記述はくりかえしみられる。

 軍司令官の三戒も「焼くな、姦すな、殺すな」であって「盗るな」とはいっていない。もし「盗るな」を実践したら第十一軍は軍司令官以下間違いなく干乾しになっているはずだ。
(190ページ)

場所によってはその徴発すらも困難となるわけだが、藤原彰が回想していた野戦病院の悲惨さは本書でも指摘されている。徴発するための人手などないから「傷病兵を治療する医薬品にこと欠き、食べさせる力もない」というのである(162ページ)。

 作戦行動中の糧秣補給は米はもちろん、野菜や豚などの副食物も大部分が現地調達である。後方からはわずかな粉味噌と粉醤油が時折、思いだしたように送られてくるにすぎない。調達とは対価の支払いを伴わねばならないが、戦争中住民は難を避けて行方がわからず、支払いなしに持帰ることになる。これを徴発といった。端的にいえばドロボーである。
 徴発するものは主として食料だが、材木の少ない中国では家具が薪の代用品となり、炊事に暖房に燃されてしまった。
 しかるに、帝国陸軍はドロボー部隊ではないから、対価を伴わない徴発行為は認めていない。作戦が終ると、対価を支払ったことにして受領証をつくる作業が始まる。中国人の書いた文字と日本人の書いた文字には歴然とした相違があって、誰が見てもわかるから、日本人が受領証を偽造するわけにゆかない。そこで、屯営近くの文字の書ける中国人が印鑑持参のうえ大勢動員される。彼らは日当をもらい、行ったこともなければ聞いたこともない遠い村々の住民になりすまし、受領証を書くのだ。
(98-99ページ)

先日紹介した『歴戦1万5000キロ』では衣料品を「徴発」してよそで金に換えるという慣行が紹介されていた。
上で言及した「ジュネーブ条約」という一節。これは敗戦後のエピソードである。

 われわれは捕虜になって始めて国際法による捕虜の取扱法を教えられた。戦争に勝って捕虜を捕まえる立場にあったときは全然知らされず、でたらめの限りをつくしながら、自分が捕虜になると、ジュネーブ条約ではこうなると教育するのだから日本陸軍はまことに勝手なものである。
(227ページ)

陸士55期の藤原彰士官学校国際法など一切教わらなかったと証言しているから、甲幹→通信学校というルートで将校になった著者がなにも教育されなかったというのも無理はない。