「都市型社会と防衛論争」

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20100102/p1
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/mojimoji/20100102/p1
この↑問題との関連で。

 現在、日本にみられる防衛論争は、すでに保・革という政党対立の軸では割り切れず、それぞれ内部での分化もめだってきた。問題領域がひろがってきたからである。
 だが、そのいずれにおいても、決定的ともいうべき盲点をもっている。この盲点とは、日本における都市型社会の過熟の無視、さらには都市型社会についての理論フレームの欠如である。
 かねがねのべているのだが、既成の防衛論議は軍備強化論から軍備無用論まで、あるいは現実主義者から平和主義者までふくめて、核問題に焦点をあてながらも、いまだ日露戦争をモデルにした戦争イメージをもつにすぎないのではないかと疑いたくなるほど、都市型社会の成熟を無視した議論にとどまっている。
 このような防衛論議の実状はどこからくるのであろうか。たしかに、第二次大戦でも、日本の旧軍隊は当時の日本、ソ連それぞれの工業技術の実状を反映するノモンハン事件から学びきれず、また巨大な生産力をもつアメリカとも最後まで日露戦争の感覚で戦っていた。国民の戦争イメージも、国内のほとんどの都市が灰燼に帰したため、かえって農村型社での戦争イメージにもどってしまった。これでは、今日の防衛論議が都市型社会の成熟を無視した議論にとどまるのも、やむをえないといえるかもしれない。
 「将軍は前の戦争をモデルに戦う」とよくいわれるが、日本の今日の防衛論議の実態は、新型兵器の使用をみこむにもかかわらず、以上のような意味で、戦争イメージとしては、前どころか、前の前の戦争をモデルにしているといっても過言ではない。
 たとえば、「日本の優秀な工業力を侵攻国はねらう」というような立論が、今日もひろくみられる。これにたいする批判論も、憲法原理にもとづく原則からの異議申立にとどまるとするならば、この批判論も都市型社会における戦争イメージを構築していないことになる。
 そこには、いずれに側においても、戦争にいたらない以前に、「有事迫る」という緊迫状況が始まるだけで、東京、大阪などの巨大都市圏にパニックがおこり、日本の工業力自体が破綻しはじめるという事態は想定されていないのである。そのとき、国土に、一〇〇〇万単位、つまり数千万の都市難民ないし失業者があふれはじめる。ことに東京がパニックになれば、国の政府、それに自衛隊も崩壊するとみた方がよい。以上は想定しうる極限状況であるとしても、現実性をもっている。
 他方、侵攻軍にしても、このような状況への侵攻は、工業力を利用しうるというプラス要因がないばかりか、かえってコストが高くなり、無意義になってしまう。それどころか、侵攻軍は一億の日本の人口をくわせるという責任をおうのである。
 これが都市型社会の過熟した日本の現実である。それにもし、自衛隊ならびに在日アメリカ軍の軍事拠点を撃破したいならば、戦術核をふくむミサイルの行使だけで充分である。上陸の必要はない。
 この意味で、日本の工業が高度化すればするほど、東京圏が巨大化すればするほど、都市型社会の問題点が尖鋭となる。都市型社会の過熟した日本は、戦争にたえられないモロイ構造になってきたのである。
 日本は「経済大国」になったのだから、今度はそれにふさわしい「軍事大国」に、という軍備増強論のストーリーは幻想にすぎない。日本は、経済大国になればなるほど、アメリカやソ連などの大陸国家と異なって、軍事的にモロイ構造になっていく。日本の軍備増強論は、アメリカの軍事戦略を下請けしているばかりでなく、その戦争イメージが農村型社会のそれに固着しているため、このジレンマに気付いていない。
(379-381ページ)

なにぶん冷戦時代に書かれた文章であるので、今日ではそのまま通用しない部分もあるが、他方「都市型社会」の軍事的脆弱さという点についていえば、日本はいうに及ばず台湾についても80年代よりいっそう進行していると言ってよかろう。上記引用部分では「工業力」だけが俎上にあげられているが、今日ではさらに情報化や金融のグローバル化などが日本や台湾にとって自国が戦場となることのコストを引き上げる要因となっている(そして中国が台湾に軍事侵攻することの経済的なデメリットを引き上げる要因となっている)。したがって「100年前」と現在を比較したり、台湾とチベットを比較するのは愚論もいいところである*1

*1:これはもちろん、裏を返せば都市化が進んでいない地域では侵攻国にとっての経済的デメリットがあまりないということであるから、そうした地域の安全保障をどう考えるかが別の課題として残ることになる。