なぜ12月23日だったか(追記あり)

時期外れの話題になってしまったが、ご承知のように「A級戦犯の処刑が12月23日に行われたのは、それが(当時の)皇太子の誕生日だったからだ」とする説がある。猪瀬直樹も『ジミーの誕生日アメリカが天皇明仁に刻んだ「死の暗号」』なんて仰々しいタイトルの本を出版しているし。(余談だが、首都である東京都の副知事が在任中にこんな本を出すことは「日米同盟を危うく」しないのだろうかw)
判決の言い渡しが終わったのは48年11月12日だが、これによって直ちに刑の執行が可能になったわけではない。『東京裁判とオランダ』(L.ファン・プールヘースト、みすず書房)より引用する。

 有罪判決を受けた者を救う望みは、この時点ではまだ完全に失われたわけではなかった。裁判所憲章の第17条では、マッカーサーが「何時にても刑に付之を軽減し又は其の他の変更を加うることを得。但し刑を加重することを得ず」と定めていたからである。
(49ページ)

そこでマッカーサーは裁判に参加していた諸国の代表を招き、判決に関する意見聴取を行い(11月22日)、そのうえで判決を支持した。だが、これで終わりではなかった。「死刑を宣告された広田と土肥原を含む、有罪判決を受けた7人の被告の弁護人は、この件を合衆国の最高裁に持ち込んだ」(153ページ)からだ。連合国側関係者の予想に反し、最高裁は「弁護人から聴取すること」を12月6日に決定した。

この決定が取りあえず出たことを受けて、マッカーサーは死刑判決の受刑者への刑の執行を延期した。その結果、多くの人たちが象徴的な意味をこめていた真珠湾攻撃の記念日の処刑は、もはや不可能になった。
(153ページ)

判決が出てから処刑に至るまでの経緯についてはほとんど調べたことがないので、当初12月8日の処刑が目論まれていたというのが本当かどうかは知らないが、常識的に考えて12月23日を狙ったというのとくらべて遥かに説得力のある記述だろう。
そもそも執行する側にどれほど日付の選択肢があったか? ワシントンの最高裁で審理がなされたのが12月16日、(受理を拒否する)決定が出たのが20日。つまりこの日までは処刑することは事実上できなかったわけである*1。処刑に対する障害がなくなった以上、わざわざ年を越して執行する理由はないだろうし、クリスマスや大晦日に執行しようと思う人間もまずいまい。20日の決定からなるべく早く、しかし準備を整える時間も考慮して……ということになれば、単なる偶然で23日になったとしてもなんの不思議もないのではないか。
「12月23日を狙った」という説を唱える側も、別に根拠となる文書など挙げているわけではないようだから放っておいてもよさそうな件だが、弁護側がアメリカの最高裁に賭けるという選択肢をとらなければ、まず間違いなく12月23日には処刑されなかったのではないだろうか。


追記:そういえば上で引用した『東京裁判とオランダ』ではアメリカと日本とでの日付のずれに関して明示的な但し書きがない。アメリカの最高裁が日本側弁護人の請求を却下した12月20日という日付がアメリカの東部時間だとすると、日本では21日となり、その決定が日本まで伝わって執行の準備が行われたのが22日となるのは十分考えられるはなしで、その結果22日24時=23日0時から死刑の執行が始まったとすると、ごくごく単純に「刑の執行に対する障害がなくなってから速やかに執行したらたまたま23日になった」のが真相だという蓋然性はさらに高くなるだろう。

*1:極東委員会は12月15日、アメリカの最高裁に管轄権はないという見解を明らかにしていたが、あえてアメリカの最高裁を無視してでも執行を急ぐ理由はなかったろうから。