「はずがない」論法
「ゴボウのせいで戦犯になった日本人」に関する情報をネットで検索すると上位でヒットするものの中に、次の二つがある。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3395418.html
http://okwave.jp/qa/q4983400.html
どちらでも同じハンドルの(恐らく同一人物)が同じ議論を展開しているのだが、後者から引用しておこう。
絞首刑になった6人は何れも傷痍軍人であり、歩行困難者、片目失明者、片腕不遇者です。暴行したり追い掛け回すことがほとんど出来ない人物です。
しかし(ガメ氏が『神を信ぜず』へのバックアップとして引き合いに出した)上坂冬子の『貝になった男』も紹介しているように(95頁以降)、軍属たちはなるほど自身の身体障害を弁明の材料に使ってはいるが、同時に捕虜を殴ったことがあることは認めてもいるのである。そもそもこれは対等の立場の人間たちが殴り合った、というはなしではない。収容所側の人間と捕虜との非対称的な人間関係への想像力を欠いたまま「はずがない」論法を使うとどうなるか、の見本のような投稿だ。無抵抗の人間を殴ることすらできない状態であれば、そもそも監視員として採用されるだろうか?
ちなみに『貝になった男』にもいくつか問題点を指摘することができる。戦犯裁判での元捕虜の証言を紹介したあとに付されたコメント。
(……)便所についても暖房についても風呂についても、はたまた虱や皮膚病についても、体が骸骨のようになったということについても、当時を知っている日本人なら証言内容についてさほど衝撃はうけまい。捕虜収容所のみならず、日本中がほぼ同じような状況におかれていたからである。
まず第一に、なるほど戦争は銃後の日本人の生活にも大きな影響を与えてはいたけれど、だからといって「体が骸骨のように」なるなどということが国内で一般化していたかのように主張するのは明らかに誇張である。第二に、このコメントだけを読めばあたかも元捕虜の証言は衛生状態と食料事情の悪さについてのみであったかのように思えるが、実際にはこれに先立ち度重なる暴行、病人を無理に労働に駆り立てたこと、靴をなめさせるなどの侮辱行為についての証言が紹介されているのである。その証言を額面通りに受け取るかどうかは別として、そうした「証言内容」に「当時を知っている日本人」が「衝撃」をうけるかどうかの考察を意図的にネグり、「多くの日本人と同じような状況だった」ことを実際以上に強調しようとしていると判断されてもやむを得ないだろう。