大阪大空襲から65年

65年前の今日、3月13日から14日にかけて行われた(第一次)大阪大空襲について、先週次のような報道がありました。

  • 毎日jp 2010年3月6日 「大阪大空襲:標的は市民、「無差別爆撃」否定 在野研究者、米軍資料を分析」(魚拓

 1945年3月の大阪大空襲は米軍の無差別爆撃ではなく、住宅地を狙い撃ちにした住民標的爆撃だったことが、日本の空襲史を研究する中山伊佐男さん(80)=東京都豊島区=の調査でわかった。従来は工場や住宅などを区別せず無差別に爆撃したため多数の非戦闘員が犠牲になったとされていたが、米軍資料を分析する中で、焼夷(しょうい)弾攻撃が有効な木造住宅の多い住宅地にのみ狙いを定めていたことが新たに判明した。大空襲から間もなく65年を迎えるのを前に、大阪地裁で審理が進む大阪空襲訴訟にも一石を投じることになりそうだ。【松本泉】
(中略)
 3月の大空襲で被災した地域は、住宅密集度が最も高いゾーンR1とほぼ一致。米軍は多数の工場や公共施設を空爆目標としてリストアップしていたが、このエリアの空爆目標は2工場と郵便局だけだった。
(後略)

通常「無差別爆撃」とは非戦闘員の犠牲がでることも厭わぬ戦術として否定的に用いられる言葉ですが、ここでは「無差別爆撃」ですらなく積極的に住宅街をねらったとする研究が紹介されています。今後のさらなる検証が期待されるところです。あくまで軍需工場を攻撃したのだと主張していたカーティス・ルメイの欺瞞が明らかにされることになるかもしれません。


3月11日の朝日新聞(大阪本社)夕刊に「遊郭のむ炎 娼妓の無念 花街育ちの男性 封印した記憶、語る」と題する記事が掲載されました。見出しが少し違っていますがネット版にも掲載されています。

 第1次大阪大空襲(1945年3月13〜14日)で跡形もなく消えながら、その被災の様子がほとんど語られなかった街がある。大阪で最も古い花街として栄えた「新町遊郭」。犠牲になった女性たちの無残な姿を心に閉じ込めてきた男性が、空襲から65年となる13日、大阪市で体験を語る。
(中略)
 生涯心を縛る光景を見たのは、その4、5日後、焼け跡を訪れた時だ。がれきの下になっていた防空壕のふたを開けた瞬間、異様なにおいとともに、両手を天に突き上げたり、縮こまらせたりした黒い塊が目に入った。変わり果てた娼妓らの姿だった。


 「かわいそうにな。みんな連れて行けばよかった」


 母は唇をかみしめた。戦後、商売を再開することはなかった。なぜ娼妓たちを置いて逃げたのかは語らなかった。徳田さんも、実家が娼家だったことが負い目となり、この体験は生涯口にしないと決めた。40年前、関東に引っ越し、建材販売や旅館経営で生計を立てた。


 だが、あの日以来、年に数回、悪夢を見る。いつも叫び声を上げて目が覚める。娼妓たちが蒸し焼きにされる場面だ。テレビで精神科医が「苦しみを語ることでトラウマが消えることがある」と語るのを見て、思いを変えた。
(後略)

従軍「慰安婦」問題や沖縄戦「集団自決」問題などに絡んでしばしば右派が口にする被害者(遺族)証言への懐疑論の背景には、「本当に被害があったなら被害者は機会を捉えて積極的にそれを訴えるはずだ」といった素朴心理学があるのではないでしょうか(“なぜ何十年も黙っていたのか”“なぜ日本人慰安婦はほとんど名乗り出ないのか”→“実は慰安婦の境遇は悪くなかったのだ”など)。しかしこの男性の沈黙は、トラウマ的(ないしそれに匹敵する)体験を口にすることがいかに困難であるかを改めて教えてくれます。
もう一つ、戦争にまつわるさまざまな不平等は「被害の記憶(の共有)」にまで及ぶ、ということもこの記事は示していると言えるでしょう(参考)。同じように、社会的に差別の対象とされた人々の空襲体験をとりあげた記事が毎日新聞に掲載されています。

なお3回シリーズの1回目にあたる記事は空襲によって孤児になった人々をとりあげたものです。