「弁護したい」という欲望が認知を歪ませる

http://twitter.com/maji1985/status/24636718896390144
ご存知の方も多いと思いますが、これは韓国政府のサイトに掲載された「慰安婦募集」ポスターが「強制連行」否定の根拠になるとする、ネット右翼の間でたびたび使われている論法です。
http://photo.jijisama.org/ianfu.html
「強制」でない事例があったことを示したところで強制による事例があったことへの反駁にはならないのですが、それ以上に興味深いのが次の部分です。

なんと!慰安婦の月給は133万円以上だったのです。
更に1330万円の借金が可能だと書いてあります。

月給○○円という条件で募集がかかっても実際にはあれこれの名目でさっ引かれる、というのがこの種の商売の常道だということ、また前借金による売春の強制は当時でも違法だったことが無視されているのも問題ですが、「1330万円の借金が可能」であることをあたかも特典であるかのように考えている、というのが目を引きます。言うまでもなく、借りる必要のない金を借りる人間はいません。現在に置き換えても若い女性が「1330万円の借金」をするというのが尋常でない事態であることは容易に想像がつくでしょう。何百万という借金を必要とし、かつ娘を売る以外に返すあてのない家族がいてこそ、こういう募集がかけられるわけです。売春の背景にあるこうした貧困の問題に思いを馳せるどころか「大爆笑」してしまうのは、「日本を弁護したい」という欲望が彼らの認知を歪めているからです。
ここ最近の tdam 氏の迷走についても同じことが言えます。彼は1930年代後半の日本軍の行為を評価する場合に「疑わしきは被告人の利益に」や「罪刑法定主義*1といった価値観を前提することを要求します。近現代ではそれが常識でしょ、と。ところが彼は、「人を殺すことはデフォルトでは違法」という価値観が当時存在したということを認めません。これを認めてしまうと「殺害が合法だったことを論証する責任」を自分が背負う事態になってしまうので、それを回避したいんですね。しかし、「疑わしきは被告人の利益に」や「罪刑法定主義」といった価値観が支配していながら「人を殺すことはデフォルトでは違法」とは考えないような社会って、いったいどんな社会でしょう? 私にはまるで想像がつきません。日本の刑法は明治40年につくられたものですが(もちろん、その後改正が加えられています)、これは「人を殺すことはデフォルトでは違法」という発想なしにつくられたものだというのでしょうか? 私には実に馬鹿げた想定としか思えませんが。
さらに、彼は1930年代後半の日本軍に対しては「疑わしきは被告人の利益に」や「罪刑法定主義」という原則に従うことを要求しません。「殺してよい」という「明文」の法的根拠がないケースでの殺害を免罪するのに「無裁判で殺してはいけない、という条文がない」を根拠とするという目もくらむようなダブスタ! これほどの欺瞞に気づかぬ振りをすることができるのもまた、「弁護したい」という欲望あってこそでしょう。

*1:ただしこれについての彼の理解はひどく混乱しています。彼自身の言葉では「法律主義」とか「法に明記されたもののみが違法となる価値観」「法律が違法・有罪を規定する」ということになりますが、ハーグ陸戦法規には「俘虜ハ人道ヲ以テ取扱ハルヘシ」という条文がありますから、「人道」に反する取り扱いを「違法」とする法律はちゃんとあるわけです。どのような取り扱いが「人道」に反するものとされるのかはいちいち具体的に列挙されているわけではありませんが、しかしこれはどんな法律だって程度はともあれ同じように一般的な規定になっているわけです。ずさんな手続きで便衣兵認定した捕虜を裁判もしないで殺害してはならない、と明文で規定した条文がないことは――そんなデタラメをやる奴が現われると想定して条約つくらんでしょう、ふつう―無裁判殺害を違法とする法的根拠がないことを意味しません。