ニセの論点とニセの二項対立

自民党参議院議員片山さつきが「従軍慰安婦」問題について語った「客観的事実」なるものについてはブクマで簡単にコメントしておきましたが、日本の保守派、右派は一体いつになったら客観的現実に直面することができるのでしょう? まあ現実を回避するためにこそ「主観的事実」にしがみついているわけなので、言っても詮無きことなのかもしれませんが。
ところで、すでに昨年刊行されていた本に最近気がつきました。

「性的奴隷型」と「売春婦型」──2つのタイプの検討を通じて従軍慰安婦問題の核心に迫る。
中国戦線の日本人町全体に日本人売春婦が一万五千人もいた。日本軍と共生して中国各地で「日本人町」を形成した日本人商人、日本の公娼制度との関連など、日本近代史の恥部に光をあてながら、従来の画一的な「従軍慰安婦像」を排し、「自虐的」でも「ねつ造」でもない「実像」に迫る。
(http://kyoeishobo.net/books.html)

著者についてのネットの情報を参照すると明らかに「慰安婦問題」否認論者たちから誹謗されていることからも、著者の主張が否認論に与するものでないことは明らかなのですが、ちょっと立ち読みしただけでも納得しがたい点がありました。著者は「商行為」論等の否認論の対局に“すべてを性奴隷で説明する議論”なるものを想定しており、前者はもちろんのこと後者も自身の発見によって成立しなくなったと主張しています。しかし20年近く前ならともかく、「慰安婦」のすべてが著者の言うところの「性的奴隷型」に属する被害者であったと主張している論者を私は知りません。例えば、1995年刊の吉見義明著『従軍慰安婦』(岩波新書)の主張の少なくとも大部分は、「中国戦線の日本人町全体に日本人売春婦が一万五千人もいた」かどうかによって影響を受けません。「日本人慰安婦の多くは、貸座敷(遊郭)などから集められた」(同書、88ページ)ことは当初から左右を越えた共通認識であったはずです。
もちろん、「慰安婦問題」否認論者にきっぱりと対立する立場の人間が「性的奴隷」という概念を重視している(「性奴隷」という表現についてはそれを積極的に支持しないこともあるでしょうが)ことは確かです。しかしそれは、時期や出自、地域やさらには偶然的な事情により「慰安婦」となった/とされた経緯や「慰安婦」であった期間の待遇に大きな違いがあったことを否定しているからではありません。問題なのはそうした違いが、「慰安婦」となった/とされた人びとの尊厳という観点から見た時にどのような意味をもつかであって、「中国戦線の日本人町全体に日本人売春婦が一万五千人もいた」かどうかではありません。自身の立場を新鮮に見せるために他の論者の主張を単純化しすぎているのではないか、という疑念が拭えません。