「実際何があったかをファクトを元に」調べずして「あった」と主張できると思うことの不思議さ(追記あり)

17日の「本質主義者、涙目」というエントリのコメント欄で大活躍の ana氏ですが、昨日帰宅した時にはすでに他のみなさんから多数のコメントがついていましたので、私の方はすっかり手を抜かせていたただきました。彼が脳内で勝利宣言しようが痛くも痒くもないのですが、いちおう「まともに相手をする気にならなかった」理由だけ。

右翼左翼両方に言えることだが、南京大虐殺があったかなかったかっていう論点にするからおかしいわけで、実際何があったかをファクトを元に言えばいいだけだと思うんだけど。大虐殺があったかなかったかだと大虐殺の定義って何よ、って話がそもそも疑問。
(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20120217/p1#c1329487311)

彼の最初のコメントです。彼の脳内左翼は「実際何があったかをファクトを元に」調べることなく、ただただ「あった、実在した」と連呼しているだけらしいです。バカバカしいですよね。「実際に日本軍は大虐殺を起こした」と主張するためには、もちろん「実際何があったかをファクトを元に」明らかにする必要がありますし、現実にそうされてきたことは当ブログの読者の方々にとっては自明でしょう。
だいたい、「なかった」と言い出す人間がいたからこそ「あったかなかったか」という疑似論点が生まれてきたのであり、この疑似論点に責を負うべきは歴史修正主義者たちです。言いがかりもたいがいにしてもらいたいですね。


追記:言うまでもないことですが、「大虐殺の定義って何よ、って話がそもそも疑問」などという発想がもうすでに歴史修正主義者への第一歩です。「犠牲者が何人以上なら大虐殺で、それ未満ならただの虐殺」なんて「定義」を議論すること自体馬鹿げています。「定義がはっきりしないから大虐殺と呼ぶな」と「定義がはっきりしないなら大虐殺でいいじゃないか」のうち、後者だけが否定される謂れはありません。私がかつて「南京大虐殺」は固有名詞として扱うべきなのだ、とすれば名付けの権利は加害者側にではなく被害者側にある、と主張したのはこういう理由によります。「被害者感情に配慮せよ!」という主張が大好きな方々はもちろん私に同意してくれることでしょう。