デマゴーグと首尾一貫性:ガメのケース

川口マーン恵美の記事に対する id:Fondriest さんの 次のような分析は非常に興味深いです。

 馬鹿馬鹿しい?つまりマーン記事は事実についての調査や叙述ではないし何かを論証しようとしているのでもないということだ。彼女は自分を主人公とした「物語」を語っているに過ぎない。すなわちこれは私小説がそうであるのと同じ意味で純粋なフィクションなのである。物語の登場人物が、その後彼を待ち受ける運命を知らないように、「ケルンの知人」から事件の報道がない事を聞いた彼女は、ケルニッシェ・ルントシャウが既に報道していることを知らない。そして「物語」の時間が経過しそれを知った時点では、ケルンからの情報は既に過去に属しておりそれを訂正する事はできないしする必要もない。その「物語」の時間経過を読者はその始めから終わりへと読み進む際に追体験し、彼女の立場に感情移入する。その中での個々の要素を比較して矛盾と見なす事は彼らにはできない。それは登場人物の視点ではなく物語全体を鳥瞰する超越的視点において可能になるからだ。だから彼らは4日以前には報道がなかったということと、あったということを共に信じる事ができる。「Aである」と「Aでない」は彼らにとって矛盾ではない。なぜなら「Aである」と主張している間は「Aでない」とは言っておらず、逆もまたそうである。彼らにとって矛盾とはその両者を「同時」に主張する事なのだ。


 ゆえにデマゴーグは矛盾を恐れる必要はない。またたとえ「物語」の綻びから矛盾が露呈しても問題はない。むしろ矛盾は残しておくべきものである。正に矛盾こそがデマを駆動するからだ。(後略)

こういう「首尾一貫性? なにそれ食えるの?」的な態度は私にとっても馴染み深いものです。

戦後の日本人BC級戦犯の裁判記録を読んでいると、こういう些細な誤解が時にいかに重大な結果を引き起こすか、よくわかります。

わっしは、「死の行進」で弱りきったアメリカ兵になけなしのキンピラゴボウを分け与えたせいで戦犯として死刑を言い渡された日本兵のところまで読んで活字が涙でにじんで読めなくなる。

その簡単すぎる裁判記録から浮かび上がってくるのは、見るに見かねて敵兵に親切にしようと考えた若い日本兵の緊張と照れからくる強張った顔と突っ慳貪な態度であって、若い弱りきったアメリカ人の胸に突き倒すような勢いで自分の乏しい昼食を押しつける日本の誠実な若者の姿です。

しかし、日本人の「牛蒡」を食べる習慣を想像することも出来ず、そんな怖い顔で親切にするひとびとの習慣を知らないアメリカ兵は、自分が弱りきっているのを嘲笑するために「こともあろうに木の根っこを口に入れる」ことを強要されたのだ、と受け取ったのでした。

彼は、戦時中に受けた屈辱を法廷で晴らしたいと考えた。

結果は残酷で許し難い捕虜虐待であるという判決でした。

この若い日本の兵隊は自分の善意というものを、どれほど呪ったことでしょう。

強調は引用者。非実在アメリカ兵にゴボウを与えた非実在日本兵が死刑判決を言い渡された、と主張しています。ところが、その「裁判記録」が実在するのか? と疑義をつきつけられた発言者は次のように言い出しました。

BC級戦犯で犯人の特定が難しかった、というのは、こういう話しをするときは言わない方がいいと思います。論点がうまくつかめない独学のひとだ、という印象を与えてしまうのね。

なぜかというと、それは「当たり前」のことで、そもそもBC級戦犯の問題は

「犯人を特定する気なんか初めからまったくなかった」ことにある。

あれ〜? ゴボウを米兵に与えた日本兵が死刑になったんじゃないの〜?
それからかれこれ6年になりますが、いまだにこの齟齬について合理的な説明をした人間はただの1人もいませんw